2018年12月30日日曜日

12/30 献花と礼拝

 クリスマスの週の更新を忘れていました。
今日は2018年最後の礼拝。礼拝後には大掃除が行われました。
写真は集会室窓。一人のご婦人が寒風の中、拭き掃除をして下さいました。
 礼拝堂もきれいになりました。
献花は「西日本豪雨災害」で被災された広島教会の会員から徳山に捧げられました。
徳山の皆さまのご支援あってこその活動でした。
ちなみに礼拝堂は男性の係でした。
集会室はご婦人方。一人の方には作業終了後の甘味をお願いいたしました。
甘味は、防府Cから捧げられたはっさくでした。
あり得ないほどのきれいさです。しかし1/6にはあっという間に…。

今週はさすがに教会の諸集会は休みとなります。

来週の礼拝は1/6 10:45からとなります。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。


【ルカ2章25-40節】
 生きるということは、歴史の証人とさせられることです。平成の時代はもとより、昭和の時代の出来事を私たちは見て来ました。聖書には二人の高齢者が登場します。シメオンとアンナ、彼らも歴史の証人でした。世界史的な言い方では「ハスモン朝からヘロデ朝」への激動を見た人物。聖書的に言えば「希望と喜びの時代から、欠如の時代への証人」でした。ハスモン時代は未だユダヤは独立状態、しかしヘロデ時代になるとユダヤはローマ帝国の従属国家となり、人々の税金負担も単純計算で二倍に跳ね上がったのです。

 慰めの源であるエルサレムの宗教者の一部は拝金集団となり、シメオンとアンナは寂しい日々を過ごしていました。そこに、誕生後40日を経た主が宮参りのため、両親に連れられてエルサレムに来ました。平たく言えば赤ん坊であり、しかも捧げものの質から見れば、裕福でない身なりの赤ん坊です。けれど、かつてマリアに妊娠を知らせ、やがて弟子たちに多国語を語らせる「聖霊」が、ここでも二人に真理を示すことになります。

 彼ら二人も、主の両親もとっさのことで驚いたでしょう。最も受胎告知以後、驚きの連続だったので、両親は驚き耐性が付いていたかもしれませんが。しかし特にシメオンは、やがて主の磔刑やマリアが傷つくことも語ります。長男の儀式のために出かけた神殿で聴かされる内容にしては、物騒かもしれない。でもこの通りになることは、聖書が語り掛けることなのです。一部始終は、神さまの御心にあり、聖霊が告げていたのです。

シメオンの望外の喜びの言葉は、後に教会によって「礼拝」に取り入れられることになりました。「神さまの御業を見たのだから、この世を去ります」と。その言葉通り、多くの人がこれから主の御業を見ることになります。けれど時には掌返しをし、主を見捨てます。そのことも神さまや主のお心の中でした。それが聖書で示され、使徒言行録に繋がり、私たちに続くのです。私たちは、歴史と神さまの証人です。この年、皆さんは神さまを様々な所で証ししました。そのことは断言できます。良き新年を祈りたい。
 

2018年12月16日日曜日

12/16 礼拝と献花とミニコンサート

 17時前後の教会のイルミネーションです。

 21時前後の教会のイルミネーションです。
 12/16 教会での礼拝後、ミニコンサートがありました。

 12/16 聖壇の様子です。
  12/16 ミニコンサートの様子でした。
  12/16 お昼の様子です
  教会イルミネーションその2 21時前後です。
今日の子ども説教(メッセージ)で読まれた本です。

 今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

12/18 火曜日 15時 徳山聖書研究会
 
12/19 水曜日 11時 牧師 柳井出張
 
12/20   木曜日 牧師 呉安浦 出張
 
12/21 金曜日 牧師 呉安浦 出張

12/22 土曜日 19時 六日市礼拝 

12/23 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝
  
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


【ルカ福音書1章26-38節】
 ひと昔前「想定外」という言葉を用いて寵児となった経営者がいましたが、最近は「想定外」はもはや通用しないほどになりました。思いや経験を越えた出来事が多発した今年でした。「マリアの受胎告知」も、マリアにとっては「想定外」の出来事だったでしょう。多数の作曲家によって「アヴェ・マリア」には美しく、悲しいメロディが付けられています。ただその原詩を語ったマリアの心境は如何だったのか。それが今日の聖書です。そして聖書はただ昔を語るのみでない。「想定外」に生きる私たちにも語り掛けるのです。

 今日の聖書には「ガブリエル」という名前付きの天使が登場します。同名の天使は旧約にも登場します。役割は「幻の解説」です。福音書を書いたルカは「幻の解説」の役割を、天使ガブリエルを通して、エリサベトとマリアに為すのです。エリサベトは主題から外れますが、マリアにとって妊娠とは「幻のような出来事」でなく、「幻であって欲しい出来事」でした。婚約中のマリアですので、妊娠が発覚すれば婚約は当然破談、マリアの身も危ういことになります。具体的には、こぶし大の石で科される石打刑が待つのです。

 マリアも戸惑っています。アヴェ・マリアの曲の美しさとは異次元の困惑が広がります。この時マリアはおよそ14歳。将来を夢見る可憐な乙女の、将来も可憐さも打ち砕く残酷な知らせでした。最終的にマリアは、妊娠を受容しますがその過程には、理不尽を嘆く気持ち、困惑の思いが行き交ったのでしょう。ここに私たちとの関連性、連続性を見出すことが出来ます。「想定外」の出来事に私たちも日々向かい合っていますから。

 そのマリアに「天使」が為したのが「主が共にある」という言葉かけでした。「天使」は「み言葉を運ぶ者」という意味がある言葉です。マリアと同様、私たちもあがきつつ、もがきつつ、諸事を受け入れるしかありません。聖書は教会を通してみ言葉を私たちに運びます。教会は私たちにとっての「天使」の役割なのです。そして、聖書が語り掛けることは「主が共にある」。いかなる出来事に向かい合っても、主と共に前に進みたい。
 

2018年12月9日日曜日

12/9 礼拝とイルミネーション

  12/8 雪がちらつく徳山Cでクリスマスイルミネーションの準備が行われました。
 12/8 何かの形になりつつあります。
  12/6 クリスマスイルミネーションの一部を撮影しました。
  牧師室外壁です。
 12/9 徳山礼拝後の1ショットです。
曇り空でしたが、夜、どのように光るか楽しみです。

今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

12/11 火曜日 午前 水原牧師 柳井 


        15時 徳山聖書研究会 
 
12/14   金曜日 牧師 呉安浦 出張

12/15 土曜日 12時 益田教会クリスマス礼拝 
           19時 六日市礼拝 

12/16 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝
        12時 礼拝後、バイオリンとチェロとピアノのミニコンサート


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 3章1-6節
 イエスさまが実在したのかどうか。学者と呼ばれる方々は主の実在を、聖書以外の様々な古代資料の分析を通して行っています。主と同時代の歴史家たちは、主の事柄を自身の著作に記載していることは確かです。今日の聖書の記載者、ルカも、主を当時の時代背景に照らして記しています。「皇帝ティベリウスの治世の第15年」という記載から、主の活動開始年と十字架(復活)の年代が分かるのです。活動開始が西暦29年、十字架と復活が西暦32年です。ついでに言うと、主の誕生は紀元前4年と思われています。

 さて、聖書は冒頭で、当時の人物の役職や名前を記載しています。このことが意味するのは、今日の主要人物である洗礼者ヨハネや主も、時代の中に生き、時代にほんろうされたということです。冒頭記載の人物はそのほとんどが、ヨハネや主の刑死に関わりのある人物です。「時代にほんろうされる」というと話が大きくなりますが、要は「人間社会の荒波にもまれ、困難を味わった」ということです。それは私たちにも重なりますね。

 その「時代からのほんろう」「人間社会の荒波」を、聖書はイザヤ書からの言葉を借りて「谷や山、曲がった道やでこぼこの道」と表現します。ユダヤの国土は日本と同様、起伏に富み春夏秋冬があったようですが、果たしてイザヤやルカは、ユダヤに住む人なら当たり前に思うことを伝えたいだけなのか。これらの「谷や山」とは、単に自然の描写でなく、ヨハネや主、そして聖書を読む私たちの人生そのものでないか、と訴えるのです。そして時に私たちは、「谷や山」を歩くことも、誰かに「谷や山」を強いることもあります。

 ヨハネが言う「悔い改め」とは、被害者としての私たちだけでなく、加害者としての私たちの生き方を、神さまのみ前に改めることに他なりません。そしてキリスト教の悔い改めとは、神さまは常に私たちの方を向いている。その方に向き直ることを告げるのです。そして主は、いと高き天に留まらず、地上に生まれ、人の荒波に揉まれました。だからこそ「主が共にある」の言葉が輝いてきます。どんなあなたでも、主が共にあります。