2017年7月30日日曜日

7/30 礼拝と献花

  7/29 小浜海岸です。
 本日も波は穏やかでした。
  7/30 徳山礼拝献花です。
 百合の花です。今週は、教会員家族の召天記念日がたくさんありました。
 百合は復活の象徴、今週に相応しいお花でした。

変わって牧師室窓のグリーンカーテン。
 実は、これはゴーヤでなくウリでした。ウリの実が中央になっています。

 昨日、本日ともに益田、六日市、徳山ではそれぞれ礼拝が行われました。
 六日市礼拝後には、キューリの牛乳寒天、初めて食べた不思議な味でした。
 徳山礼拝後にはドライカレーを頂きました。

 8月に入って、聖書の学びは休みとなりますが、今週、来週ともに以下の日程で礼拝が
 行われます。

8/1(火)牧師 柳井C

8/5 (土)牧師 厚狭C

8/6(日)11:00 益田 礼拝 徳山の礼拝堂は開けてあります。 

いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書1125-30節】
今日の聖書前段落、この時主はお一人の状況で、かつて回られた町々を思い出します。伝道の不振、既存の宗教者とそれに影響された人々が、まことの神さまの愛を受け入れなかった。主はそれぞれの町を叱り始めるのです。「この町はこうだ、あの町はああだ」と。聖書、それも主の叱責ということですから、背筋を正して読むのですが、見方によってはこれは主の「不平(ぐち)」ともいえる箇所です。一生懸命に活動しても、その働きが報われず、目に見える結果とならない時、主も「人間」として、思わず不平を口にします。

しかしここからが主の真骨頂です。一時は不平を口にするものの、そこから「神さまを賛美」し始め「御心だった」と言われます。思わしくない状況でも、神さまをたたえるのが主です。これは、私たちに「こうしなさい」と言うものではありません。あくまでも主が為されたことです。「うまく、思い通りにならない」ことも「御心」と主は言われるのです。主にとっては、「伝道の不振」も、「既存の宗教者とそれに影響された人々」の存在も「御心」の成就に必要だったのです。その人々が居たからこそ、主は有名な言葉を言われます。

「疲れた者…」の言葉の対象は、何よりも「既存の宗教者」から圧力を受けた人々です。ただ主の招きは、打ちひしがれた人だけを対象とはしません。「柔和と謙遜を学びなさい」と、既存の宗教者への招きも為します。主に、偏りの愛はありません。言葉で招きつつ、主は神さまの「御心」をも念頭に置いていたと察します。それは、「柔和と謙遜を学ぶ」必要のある人々に、自らが「柔和と謙遜」の象徴である十字架に架かるとの「御心」でした。

主は「くびき」という、農業用語を持ち出します。重荷でなく「くびき」が「負い易い」とあります。通常の軛は、引く物と荷とを繋ぐ道具です。「負い易く」するためには、引く者の負担にならないような処置が必要です。「安らぎを得られる」のですし「休ませてあげよう」の言葉が「くびき」の内実です。「信仰」「祈り」「教会」とは、私たちと重荷をつなぐ「くびき」でしょう。それがあるからこそ、この世の重荷を負うことが出来る。そう信じます。
 


2017年7月16日日曜日

7/9宇部 7/15小浜益田 7/16徳山 礼拝と献花

  7/8 益田市元町の礼拝堂です。

 7/9 宇部のルーテル教会の聖壇です。

  宇部教会には新しい十字架が建ちあがりました。

  7/15 益田市小浜町の礼拝堂です。

  7/16 徳山の外のゴーヤ
そして礼拝堂。本日は「野の草を見よ」ということで、庭の草木が捧げられました。

 先週は宇部で、今週は益田、六日市、徳山で礼拝を行いました。

 徳山礼拝後には、卵トマトの炒め物、胡瓜の浅漬け、梅干しおにぎりの愛さんでした。

 今週、来週共に礼拝、集会は以下の日程で行われます。

 
7/18(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。

7/22 (土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

7/23(日)10:45 徳山 礼拝 

いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書1016-33節】
 「狼の群れに羊を送り込む」とは、主の弟子たちや、原始の教会の人々を取り巻く環境の比ゆです。弟子たちに迫る出来事を伝える主です。迫害は私たちには縁はありません。しかし「狼の群れに送り込まれる」出来事や迫害を、「それぞれの苦難」と読み替えたときに、この聖書は私たちに近しいものとなります。これは、私たちへの主が語る言葉なのです。

 まず「賢く、素直になりなさい」をどう受け止めれば良いか。「なれません」という言葉は喉の奥に引っ込めたい。「賢い」と言う言葉は「考える」、「素直」という言葉は「純粋、そのまま」とも訳せる言葉なのです。ここで言われることは「諸事に直面したとき、その意味を考え(蛇の賢さ)、勘繰らずに、そのまま受け入れる(鳩の素直さ)」ということなのです。

 地方法院への連行、鞭打ちや証言などは全て、私たちが出会うことになる苦難と言い換え得ます。苦難に出会う時にどうなるか。19.20節の言葉に信頼したい「父の霊」=「聖霊」「神さまご自身」がその折の言葉を語ると言うのです。聖書のような「極限状況」はないでしょうが、私たちが考える「想定外のこと」が起きた時にも「大丈夫」なのだ、何があっても主は助けて下さるのだ、ということが言われます。だからこそ、諸事困難に直面したときに、安易に諦めるのでなく、「考え(蛇の賢さ)、受け止める(鳩の素直さ)」勧めなのです。

結びで主は「弟子は師の如くで十分」と言われますが、実際弟子たちはこの時もこれ以後も、主の如くにはなれませんでした。むしろ時に「狼」になり、立場の弱い人々のことを顧みなかった(使徒言行録)ということがありました。けれど弟子たちは、それぞれに主の如くという向上心は持っていたのです。一つの指標(目標)としてこの言葉を受けつつ、「考え、受け止め」たい。羊でなくなってしまう時もある私たちを、主は導きます。

2017年7月2日日曜日

7/1.2 益田の海と徳山礼拝、献花

 7/1の益田小浜の海です。透明です。
 東京の海や砂浜は黒かったと思い出しながら写真を撮りました。
 7/2 徳山礼拝後に牧師室窓に緑のカーテンを設置しました。
 紫陽花、一輪です。花瓶は教会のもの。
本日の献花です。十字架と併せて、写真。

 今週、来週の教会行事は以下の通りとなります。
 いずれの礼拝、集会にも、どなたでもご自由にお集い頂けます。

7/4(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。

7/8 (土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

7/9(日)10:45 徳山 礼拝 

下関C、厚狭Cの竹田大地牧師による礼拝です。
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日礼拝後には、スパゲッティミートソースの愛さんでした。

本日の礼拝のメッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書99-13節】
 「宗教」という日本語には、「究極の真理の教え」の意味があるそうです。「宗教」を意味するラテン語には、「神さまと人とを何度でも結ぶ」の意味です。それでは、主の時代の宗教者が「神さまと人とを結びつける」働きをしていたかというと、そうではありませんでした。むしろ、神さまを求める人たちに、越えられないハードルを課していたのです。

マタイという人が収税所に座っていました。座していたマタイは無言です。彼の気持ちを推察することは出来ます。主はそんなマタイの心とも共に在りました。「私に従いなさい」とは、従う心の縁を求めていたマタイが、何よりも求めていた言葉でした。主はマタイの求める心をご存じだったのです。そして、当時の宗教者には為し得なかったことを為して下さった。マタイの心には、ただ感謝のみです。「この方が自分のような嫌われ者にも声をかけて下さった」。

主はマタイの家に向かいます。そこで「徴税人と罪人」も集まり、食事が始まりました。主はファリサイ派の人々にとって、「義人」でした。その「義人」が、「罪びと」と共に食事をするのは異様な光景とファリサイ派には映ったのです。しかし主はファリサイ派に反論します。「神さまは、憐みを求め、いけにえは求めない」とは当時の宗教者への痛烈な皮肉でした。なぜか。彼ら宗教者は、いけにえの半分を自分の懐に入れた。ちなみに徴税人も税金の一部を懐に入れた。そのファリサイ派が徴税人たちを罪人と呼び、批判する愚かさを暗にほのめかしたのでした。

ところでこの聖書の謎は、なぜマタイがすぐに主のみ声に聴き従ったかです。ヒントは、この話が置かれている位置、山上の説教の直ぐ後です。このマタイは主のみ教えとその暖かな人柄に触れて、心が主に傾いた、と告げるのです。神さまが、主を遣わし、聖霊の導きによってこのマタイを弟子にしたのです。それはまた、私たちの姿ではないでしょうか。