2017年1月29日日曜日

1-29 雨と献花と看板



本日の献花です。そろそろ、チューリップの季節です。
一週間で、つぼみが花になるでしょうか、きっと咲くでしょう。
会員子息の誕生日を記念してささげられたお花です。



来週の説教題です。「必要不可欠なあなた」。

本日も徳山では礼拝が行われ、礼拝後には愛さんが行われました。
手製のラーメンでした。

今週の予定は以下の通りとなっています。

1/31(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

2/2(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町教会礼拝

      19:30 六日市礼拝

2/5(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書418-22節】
宗教改革者ルターの功績の一つは、聖書の翻訳です。ヘブライ語、ギリシャ語の聖書をドイツ語に翻訳したことです。自分の使う言葉で聖書が読めるように、というのがルターの願いでした。ルターは、古語の「職業」を「天職」と翻訳しました。職業とは、天職という考えを持っていたのです。この職業観、私たちには納得し難いものかもしれません。

仕事のし甲斐、という壁に時に私たちはぶつかります。聖書の漁師たちも然りでした。当時の漁師たちは、生きがい、仕事のし甲斐というものに飢えていた。主が「新しい生きがい」をお与えになったのです。当時、ユダヤは植民地でした。一生懸命に漁業を営んでも、その収入は僅かでした。「人間をとる漁師」とはそんな彼らへの招きの言葉です。今までは同胞の腹を満たす働きに従事していた彼ら、主の弟子として、ローマに虐げられている同胞の心を満たす働きに魅力を感じ、弟子としての第一歩を踏み出したのです。

ところで、この漁師たちには個性があります。先読みのペトロ、烈火のヤコブとヨハネ、そして寡黙なアンデレ。しばしば失敗をする中で、これらの個性は満遍なく発揮されています。こういう人材が弟子になっても良かったのでしょうか。良いんですね。弟子としての基準、ハードル、を下げるために、主はあえてこのような人々を選んだのです。

福音書と使徒書とでは、明らかに弟子としての責任感や使命感に違いがあります。主の弟子時代は、気概が先に立って、行為は伴わない、そういう人々でした。けれど主は、漁師たちのそんな姿丸ごとを愛されたのです。主の意に添わぬ働きをしたとはいえ、破門、追放という手段は取らないのが主です。弟子たちは、そんな主の愛に徐々にその地の自分が変えられて行くのを感じ取ったことでしょう。主の愛は、私たちにも無論及ぶのです。
 


2017年1月22日日曜日

1/22 雪と教会と看板

 本日も教会には献花が為されました。感謝です。
 来週の礼拝の説教題です。

 こちらは牧師が普段通る、益田への道です。
 なんだか大変なことになっています。ちなみに
写真は「山口県道路情報カメラ」2017年1月24日 14時45分時点のものです。
写真は「山口県道路情報カメラ」2017年1月24日 14時45分時点のものです。
勇気ある車のわだちが見えます。もしこういう状況なら、私はここを通りませんで、
回り道をします。

本日も徳山では礼拝が行われ、礼拝後には愛さんが行われました。

今週の予定は以下の通りとなっています。

1/24(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

1/26(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町教会礼拝

      19:30 六日市礼拝

1/29(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書412-17節】
「洗礼者ヨハネの逮捕を受けて主が退く」と聖書は冒頭語っています。文字通り読めば、師であり親族であるヨハネの捕縛を受けて、主も心を痛め、自身の身を案じ、身を隠すということです。身近の破局的出来事を前にした動揺は、私たちにはしばしば起こります。主もそうだったか。そうとも読める聖書に安心しますね。けれど、聖書はそれとは全く反対の意味も告げるのです。主は、心を痛めた処か、意気盛んに活動を始めたというのです。

この時ヨハネの逮捕命令を出したのはヘロデ王です。ヘロデ大王の息子の一人です。だがこの息子ヘロデは父の剛腕は継がず、どうでも良い腕のみを継ぐのです。何と、兄弟の妻に惚れる。欲した息子ヘロデは、ヨハネに諫められます。煩いので逮捕したのです。息子ヘロデが父から継承した領土がガリラヤでした。主がヨハネの逮捕を受けて、退いたのはヘロデの本拠地ガリラヤということです。ヘロデを恐れての隠遁なら、別の地に身を移すはずですね。それをしない、ということは、逃亡でないのです。主はこの時までヨハネの手伝いをしていたが、逮捕後、主独自の活動を始めるためにガリラヤに来たのです。それが「神の国」運動でした。

およそ宗教とは、人が神的なものに近づくことを旨とします。だが主は、人が神に近づくのでない、神が人に近づくという意味の「神の国」接近を語る。人は、そのことを受けて自身を再考する。それはイザヤの預言に暗示されています。光が与えられたのです。

その場所はカファルナウムでした。主はこの町で、漁師たちを弟子とし、一人の弟子ペトロの姑が熱病を患えば彼女をも癒し、神のみ教えを平易に語ります。それほど多くの恵みがあっても、この町の人々や弟子たちはだらしなかった。主もやがてこの町を叱る。それでも主は忍耐し、弟子をも捨てず、遂にはご自身を捧げました。主の忍耐は私たちと共にある。

2017年1月15日日曜日

1/15 雪と礼拝と献花とその他

本日、徳山は雪でした。
 教会の庭で、子どもたちが何やら不思議なものを作っていました。
 作品名は、「大宇宙の神秘」です。


 一転して温かい礼拝堂には、献花がなされています。
会員の誕生日を記念して捧げられたお花です。


再度、一転して寒そうな峠の写真。
牧師がいつも通る「鹿野」~「徳佐」の中間地点の峠道です。
果たしてこれは道なのか。
なお、写真は「山口県道路情報カメラ」2017年1月17日 13時15分時点のものです。

本日も徳山では礼拝が行われ、礼拝後には愛さんが行われました。

今週の予定は以下の通りとなっています。

1/17(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

1/19(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町教会礼拝

      19:30 六日市礼拝

1/22(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書313-17節】
主が洗礼を受けられたヨルダン川は、海抜が世界で一番低い死海に流れる川です。つまり主は、低い土地に自ら向かい、そこで受洗されたのです。洗礼とは罪の赦しと新たな命の獲得を意味します。主は何か罪を犯したか。主の心の深みは察し得ませんが、大切なこと、主の心に洗礼の思いが宿ったこと。なぜ主は洗礼を受けたいと思われたのでしょう。

主は「正しいことを行うのは自身たちに相応しい」と謎めいた言葉を言われます。実は、以前、マタイ福音書で「正しい」という言葉が出てきました。主の受胎発覚時でした。「夫ヨセフは正しい人だった」。この正しさとは、律法を守るゆえの正しさでなく、他者との共生、厳密には妻マリアとイエスと共に生きる決断です。それが「正しい」のです。主が語る「正しさ」も他者との共生を意味する。主は洗礼で、他者と共に生きる自身を示したのです。

実は主の受洗直前は、洗礼者ヨハネが怒っている場面です。当時の宗教者が、捧げものを所得としつつ、口頭では神の愛を語ることに直接怒るのです。本日の聖書はそのとき」との書き出しでしたね。即ちヨハネの憤りの対象はそこに居たのです。だが主は、ヨハネと共に宗教者に憤るのではなく、まず洗礼を受け、そこに居た人々と共にあることを大切にしたのです。やがて主の舌鋒はマタイ書で宗教者たちを貫きますが、まず主は、共にあるのです。

本日私たちが持ち帰りたいことは二つです。主がどのような地形で受洗され、どのような人々と共にあるかということです。高さ低さとは、単に地形だけでなく、私たちの心そのものを表す言葉でしょう。人生という道にも表れるものです。心が深みや低い所に沈む時、そのような折こそ主のみ言葉と聖霊の助けを信じたいのですね。主は自ら洗礼を希望されました。即ち、低い所に生きる人々と、同じスタートを切ったのです。感謝です。