2016年7月31日日曜日

7/31 礼拝と献花

 本日の献花です。
 本日午後、徳山Cでは会員ご父君の召天記念会が行われますので、相応しい百合の花です。
召天記念会のさいに捧げられた献花と、故人の記念の品々です。
ロックハンマーです。故人は地学の教師で、山口県を愛した方でした。

 来週も、礼拝は以下の日程で行われます。
 聖書の学びも以下の日程です。
 いずれの集会も、どなたさまもご自由にいらして頂けます。

 8/2(火)徳山C聖書の学び



 8/4(木)には、
       益田 14:00~ 礼拝、 
        六日市 19:30~ です。

 8/7(日)益田C合同礼拝、
 徳山、柳井、防府での礼拝はお休みとなりますのでお覚え下さい。



 
 本日の礼拝説教要旨です。




【ルカ福音書11113節】
新約聖書が執筆されたギリシアの言語では、人間は「アンスロポス」と言います。祈りの存在という意味です。祈りは人の自然な習慣なのです。ではどのように、何を祈るか。祈りの内容に規定はあるか。それを今日の聖書が語るのです。まず冒頭で主は祈ります。祈りを求める弟子たちです。先人ヨハネの模範を引用し、主に祈りの文言を求める弟子たちがいます。

私たちの祈りは自己中心的なものです。主の祈りは私たちの祈りに欠けているものを含んでいます。ところでこのルカでは、昔の私たちの主の祈りと言葉が多少違います。ルカはただの「父」しかしマタイ福音書は「我らの父」。神は私だけの父でなく全ての人の守護者です。全ての人が父と呼びうる存在です。またマタイ「み国と御心」とあるがルカ「み国」。末尾の「頌栄」は後代の付加。神の愛を最初に想起し末尾で神賛美、まさに祈りの模範です。

また主の祈りを祈ることで隣人他者のためにも祈ることになります。日ごとの糧、赦し、誘惑回避」の要素を主は私たちの」必要とします。誰もが日ごとの糧、心の糧を求める。主の祈りのこの一句を祈ることで、必要を求める人々のための祈りになります。赦しや誘惑回避も同様。誰もが願うことです。つい私たちは、主の祈りすらも慣性で祈ってしまします。心を込めて、今の世の中の課題を想起しつつ、隣人他者のために祈りたい。

そこで求めよ」何を祈りで求めるか。主の例え話です。パンを借りに来た人が訪ねた時間帯はまことに不謹慎です。パンを焼くことも大変です。しかし結局パンを与えると主は言うのです。これはだめかな、とか、これは違うかな、とためらう必要はありません。何でも求めて良い。神さまは私たちの思いを越えて、良いものを私たちに下さるお方です。祈りの文言が見いだせない時、暗記しているであろう主の祈りを、心を込めて祈りたい。


2016年7月24日日曜日

7/24 礼拝と献花


 献花だけ撮るのでなく、献花と十字架双方を撮りました。

 本日も、蒸し暑いうす曇りの天候の中、礼拝が行われました。
 「マルタとマリア」の聖書箇所でした。

 礼拝後には冷やしうどんとおにぎりの愛さんを頂きました。

 来週も、礼拝は以下の日程で行われます。
 聖書の学びも以下の日程です。
 いずれの集会も、どなたさまもご自由にいらして頂けます。

 7/26(火)徳山C聖書の学び



 7/28(木)には、
       益田市小浜にての 14:00~ 礼拝、 
        六日市 19:30~ です。

 7/31(日)徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~








聖書からのあなたへのメッセージ

【ルカ福音書103842節】
主がマルタに語られた「マリアの良い選択」とは何でしょうか。「み言葉を聴くことが第一で、台所奉仕は二番目です よ」と読まれてきましたが、果たして台所奉仕を二番目とすることは主の意図することでしょうか。み言葉を聴くことも、互いにもてなしあうことも、教会では 双方が大切。双方が大切というなら、なぜ主は「マリアは良い方を選んだ」と言われるのか。マリアが選んだ良い方とは何かを聖書から聴くと、恵みが浮かび上 がるのです。

聖書で主はみ言葉を語っています。聞き入るマリアです。一方でマルタ「色々のもてなし」=「多くの奉仕」をしてい ます。その気持ちは己の力量を忘れさせ手一杯になってしまいます。傍を見ると無為なる妹マリアです。「私だけもてなし」させていると不満なのです。マルタ とマリアとを比べてしまいますと、聴くことか、持成しか、の選択になってしまいますね。

思い切って「マルタとマリア」という見方を捨てて、主とマルタ」主とマリア」とすると聖書が見えてきます。結論から言えば「必要なこと」とは「もてなし」です。「誰の持成しか」 が大事なのです。実はこの話に持成す人は二名います。一人はマルタ、そしてもう一人は主なのです。主はみ言葉の奉仕をし、マリアは主の奉仕を受容します。 一方、マルタは主の奉仕よりも、自分の台所奉仕を重要視するのです。主の奉仕に思いが至らない。マリアが選んだ良い方とは主の奉仕を受容したことなので す。マルタは自身の業にこだわって主を受容しないのです。

し かしこのマルタも主からの言葉を頂きますね。思い悩む自身を知らされます。この世は「何が出来るか」を問います。しかし聖書は「神さまが私たちにして下 さったこと」をまず大事にします。教会は多くの奉仕からなり立ちます。その前提は主の奉仕です。神さまが全てに先立って私たちを愛し導くのです。そのこと を覚えつつ、生きる群れでありたい。