2016年1月24日日曜日

1/24 雪の礼拝と献花とメッセージ


  本日の献花です。水仙、桃と厳冬の花ですが、力強さを感じます。

桃の花のアップ画像です。

 毎週、私が益田、六日市に行く際の道路の今の状況です。
上が徳佐手前の「河内峠」(山口県道路カメラより)。どこに道があるの、という状況です。
下は道の駅「柿木村」(島根県道路カメラより)。道の駅は休業でしょう。

本日、徳山は今も雪がちらついていますが、礼拝が守られました。
礼拝後には「男の料理」焼きそばと中華スープを頂きました。

来週も、礼拝は以下の日程で行われます。
 どなたでもご自由にいらして頂けますので、お気軽においで下さい。

1/31(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 1/28(木)には、
       益田小浜にて14:00~ 
        六日市19:30~です。

本日の説教要旨です。




【ルカ福音書5112節】
このルカ福音書は、主が当時の人々を徹底して愛し抜く様子を描きます。それは細かい記述に表れています。本日の聖書に「ゲネサレト湖」とあります。これは聖書に登場するガリラヤ湖のことです。ゲネサレトとは主の時代に遡る昔、旧約時代の呼び名でした。歴史上、地名は人間の都合に合わせられます。だがルカは頑固に当初の呼び名で呼ぶのです。人間は、地名や自身をも都合良く扱いますが、神さまは私たちを頑固に愛するのです。

聖書は「弟子の召命」の個所です。不漁を前に落胆する漁師たちです。主はペトロに「もっと深みへ」と云います。言葉に従い大漁です。主の言葉にペトロは胸打たれ、弟子となる個所です。しかしペトロは、主の登場に歓喜する群衆と、空気が明らかに違うのです。漁師たち即ちペトロが網を洗っている場面は、人々が主を熱狂的に取り囲んでいる個所です。どこか覚めています。また、主の「もっと深みへ」の言葉に物申します。主に、無条件でなく渋々と、いちいち言葉をさし挟みながら従うのがペトロです。

彼は大漁に驚きます。そして「全てを捨てて」主に従うと記します。確かにペトロは職業と故郷を捨てました。でも、直ぐに拾ったものもありました。それは人間性、人としての本質でした。全てを捨てきれない人の姿を私たちは知っています。主から多くを頂くのですが、恵みを知るのですが、人間の根幹は残念ながら変わらないのです。

それでも主は関わって下さいます。私たちの話です。この世の波に翻弄される私たちがいます。波は様々な形で私たちを困らせます。この世の波や、家庭の波風や、自身の体調の波など。突然の知らせや出来事に翻弄されてしまいます。しかし私たちには主が共にあります。それは、いかなる時も大丈夫だということです。これが愛です。


2016年1月17日日曜日

1/17 礼拝献花と説教、そしてもちつき


 本日も、柳井、徳山、防府では礼拝が行われました。
 徳山では礼拝後、もちつきが行われました。
 なぜ教会で、なぜ今と、考え始めたらいろいろと複雑になりますので、
 動画を見て感じて頂ければと思います。きっと、楽しくなることでしょう。
 著作権的に、少々危険な「あんこ入りパンマン」の画像がありますが、
 証拠は今、誰かの子どもたちのお腹の中でしょう。
 
 なお、動画のBGMは、「一丁入り」から頂きました。「老松」とどちらにしようか迷ったのですが。
 もちつきは、「古い」行事かもしれませんが、「今」でも十分に通じるものです。
 昔の行事に含まれる、和合の「志」に「生きる」ことを思った「朝」でした。

 来週も、礼拝は以下の日程で行われます。
 どなたでもご自由にいらして頂けますので、お気軽においで下さい。

1/24(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 1/21(木)には、
       益田14:00~ 
        六日市19:30~です。

本日の説教要旨です。



【ルカ福音書41632節】
青年期の主は、父を助けガリラヤ中を巡っていました。閉い世界観の当時は、父ヨセフの大工の仕事は「地方巡り」が主たるものでした。身一つで地元や方々の村に出かけ、必要を聞き修繕していた。一家の主ヨセフは不在がちで、地元からは不信の対象だったのです。さて、大工仕事の他面で、主は洗礼者ヨハネの生に憧れてその生き方を模倣しました。名高い荒野の誘惑を経て、主の評判が高まります。主はナザレに帰るのです。

まず主は礼拝で聖書朗読の奉仕をします。個所はナザレの人々に「慰め」の個所だったのです。そういう経験がありますか? いつもの日曜日「たまたま」朗読の聖書が喜びのみ言葉だったり、「偶然」開いた聖書が折に叶うみ言葉だったりと。「たまたま」や「偶然」以上の計らいです。しかし、ナザレ村の人々は「慰め」と取り得ないのです。

「驚く」ナザレの人々です。これは「疑惑」の思いです。直後に「ヨセフの子」との言い回しが為されます。「自分たちとは違う」生き方は奇異の目に映った。み言葉や神の恵みよりも、語る主の出自に影響される。主の反撃も厳しい。奇跡を行えば信じるかと問い、故事を引きつつ別の地方への恵みを示唆します。主の初めての礼拝の結末は悲惨でした。礼拝時にも関わらず主は、崖から落とされそうになる。だが主は逃れます。

罵声を背に行く主の心の悲しみは深いものがあります。この悲しみは、主の十字架まで続くのです。主は、この人々の為に十字架に付き、神の慰めと自身の愛を知らせて下さいます。神さまもまた、主ご自身を一度は十字架でご自分の基に引き取りますが、復活によってもう一度私たちと共に居らせて下さいます。まことに恵みです。主がガリラヤ中を巡ったことは、主はまた私たちの週日をも巡って下さると信じ得ます。
 

2016年1月12日火曜日

1/10 礼拝と献花


 本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
 写真は、季節外れですが、コスモスの画像です。明らかに季節外れです。

 徳山では、礼拝後ちらしずしとみそ汁の愛さんが行われました。
 いよいよ本格的な寒さが訪れています。正月三が日の温かさは、やはり季節外れでした。

 来週も、礼拝は以下の日程で行われます。
 どなたでもご自由にお集まり頂けます。

  1/17(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 1/14(木)には、
       益田14:00~ 
        六日市19:30~です。

本日の説教要旨です。



【ルカ福音書31522節】
聖書には、ヘロデという名の人が登場します。彼は特に洗礼者ヨハネの心に怒りの炎をともした人物でした。以前から、大規模公共事業によってユダヤの人々の物心を圧迫し、前王朝の係累であり自身の親族を粛清することで、人々から安心を奪取し、弟の嫁を所有することで尊敬の心を失います。ヨハネはヘロデに直言しますが、逮捕されます。

ヨハネの逮捕から時間をさかのぼり、聖書の場面は主の洗礼の箇所です。前半ではヨハネが洗礼を受ける主を紹介します。ヨハネによれば主は「脱穀場を清掃し、麦を蔵に収め、殻を火に投入」する方です。これはヨハネが主について語る言葉です。心を清め、良き実を増やし、悪しき心を焼く。ヨハネは自分自身が領主ヘロデや当時の人々の心に厳しく迫りました。しかし強い言葉は、相手の耳には届くのですが、その心には届かないのです。

主はそのように、語気荒く世間に訴えることも出来ました。私たちがこの福音書を読み進めれば主の怒りの箇所を見つけることが出来ます。「不幸だ」と主は驚くような言葉でファリサイ派を非難します。主もその怒りを抱きつつ、やめてしまうのです。その代わり、主が一人で神の怒りを引き受けます。それが主の十字架ということなのです。

 主は本日の聖書箇所の洗礼で、罪びとである私たちの仲間入りをしました。本来私たちは、自らの心である「脱穀場」を隅々まで清める必要があります。主もヨハネのような厳しさで私たちに接することも出来ました。しかしこれが恵みです。主は私たちを神のみ前に立たせず、ご自身がみ前に立ったのです。だから「聖霊と火の洗礼」は裁きのように思えるが救いなのです。十字架の主が復活し、聖霊降臨祭で私たちに力をくださったのです。私たちはこの恵みを自身が受け止めたい。そして隣人に伝えたい。
 

2016年1月3日日曜日

1/3 礼拝とメッセージ

本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。

礼拝後、徳山では、帰省した会員ご家族の「賛美ダンス」が披露されました。

来週も礼拝が行われます。今週から、益田、六日市礼拝も再開されます。

今週の礼拝メッセージです。



【マタイ福音書2章1-12節】
年の初めの日曜日は顕現主日です。顕現とは、神さまがみ姿を表す意味です。私たちは、今年もその一年を心から願います。だが聖書は悲惨な物語への序を記します。ヘロデ王が登場しますが、歴史的事実は血の香りがつきまとう王でした。前王朝に仕える武将で、武功が顕著で皇女を娶り、子を為します。所が途端に羊の皮を脱ぎ捨て虐殺を始めます。姑、義理の弟、子、妻を殺し、前王朝を排し、新王として即位します。

親族や子どもを殺めてまでヘロデが執着したのは、自らの血統のみでした。そのヘロデのもとに不穏当な知らせが東方の学者たちによってもたらされます。「新たな王の誕生」ヘロデ王と住民の不安が記されています。王の不安は自らの地位崩壊への危惧で、住民の不安はとばっちりへの恐れです。そもそもなぜ学者たちはエルサレムに行ったのか。

東方から見て、ベツレヘムと王のエルサレムとはほぼ同方向ですが、明らかに別方向です。だが博士たちは導きの星を見失ってヘロデに面会したのです。ヘロデの猜疑心に火を付けたのです。ヘロデ王の神殿宗教者も誤ります。彼らの進言は「偉大な王がベツレヘム誕生」だがミカ書の原典「小さな王が生まれる」なのです。博士たちが猜疑心に火を付け、学者たちが着火剤を振りまき、結果ベツレヘム周辺の二歳以下の嬰児虐殺へ結びつくのです。

年の初めから血生臭い聖書の言葉です。しかし主はその地上に誕生なさったのです。神は目的地喪失の博士たちに再び道を示し、み言葉を曲げた腰巾着宗教者たちに主はみ言葉の真理を示します。年の初めの顕現主日。この一年の方向性を指し示す意図で私たちはみ言葉を聞きます。残虐さとは程遠くとも、道を見失い、方向性を誤る可能性の私たちがいます。その私たちに絶えず導きが共にある。謙虚に聞き従いたい。