2015年12月27日日曜日

12/27 教会の礼拝と献花、ピアノ演奏





今年最後の礼拝も、徳山、柳井、防府で行われました。
徳山では礼拝後、会員がかつて献品したピアノの、恒例の演奏が行われました。

礼拝後には、徳山では一年間使わせていただいた礼拝堂を、
感謝をもって清掃しました。

来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
今週の益田、六日市礼拝は、家庭礼拝となります。

 1/3(日) 
       
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~ 来週の礼拝も通常通り行われます。

 本日の説教要旨です。



【ルカ福音書22540節】
年齢を重ねることは、意図しなくても歴史の節目に少なからず立ち会うことになります。聖書にシメオンとアンナという二人の高齢者が出てきます。まさに「時代の節目に生きた」人々でした。この二人は、ユダヤの国が独立国家から従属国家へと移り行く歴史を見ていたのです。国家の主権がはっきりと失われてゆく過程に生きていたのです。

ローマ帝国への従属国家を担うのがヘロデ王でした。前王朝の血統保持者や宗教者へは苛烈な政策を取ります。権勢を誇るためユダヤ神殿の再建や大規模公共事業を行いました。ユダヤの人々の慰めには程遠い政策でした。シメオンは「慰め」を、アンナは「救い」を待ち望んでいたのです。主を見たシメオンは、はっきりと「異邦人の光」と語ります。イエスさまは全ての人の光とみなすのです。ヘロデ王をはじめとする抑圧者をも照らします。

続けてシメオンは不思議なことを言います。赤子は「救い」をもたらすのですが、「人々の倒立を担う」「反対を受ける」「母は剣で心を貫かれる」と。主の公生涯や架刑を予見しているのです。主のみ前に傲慢な人々は自身を知らされ、打ち砕かれた人々は喜びを得る。主ご自身は反対者として処刑されると。主ご自身も「倒れる」のですが、「また立たせられる」復活を語ります。だから、安らかに去ることが出来ると言います。

アンナも同じく「産まれた主が救い」と語ります。クリスマスは主が生まれた日とされています。世の中は不思議に騒ぎますが、私たちはこの方が全ての人の救いのために生まれたことを知ります。一たびは世の反対に架刑されるが、復活されます。私を照らす光として、全てを照らす光として生まれたのです。やがて新しい年を迎えます。礼拝堂を去り、ゆく年を振り返り、くる年を覚えます。主が私たちと共なる歩みを感謝。
 

2015年12月20日日曜日

12/19 益田クリスマス礼拝と説教要旨



 いつもは徳山の献花ですが、今日は益田Cのクリスマス礼拝の様子です。
 12/19(土)に、益田教会でクリスマス礼拝が行われました。
 礼拝後には祝会が行われ、盛大なものとなりました。

 いつもは礼拝は3-4人で行いますが、この日は35名が集いました。

 今週も、また来週も礼拝は以下の日程で行われます。

 12/24(木) 
       徳山19:00~
       柳井19:30~
        クリスマス・イブ礼拝です。
 12/24(木)には、
       益田小浜で10:30~ 通常の礼拝、 
  12/25(金)には六日市で18:30~の礼拝です。


 12/27(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~ 来週の礼拝も通常通り行われます。

 本日の説教要旨です。



【ルカ福音書13945節】
今の旅は手軽なものです。目的地までは最長でも二日あれば着きます。車や電車、飛行機などが旅の助けです。昔の旅は難儀なものでした。主の母マリアは受胎告知後、旅をしました。マリアがいたナザレから、旅の目的地はユダの町です。直線距離で120㌔でした。目的地は親類のエリザベトの家で、ひと月からふた月をかけた道中でした。

聖書は、ナザレからユダの町までのマリアの旅路を僅か一行で記します。マリアはしかし、本当に良く頑張ったのです。聖書はマリアの来訪を受けたエリザベトの喜びの姿を記します。エリザベトは高齢妊娠、マリアは未婚妊娠、世の中から斜に見られていた二人は、再会を喜びます。ここに相互の支え合い、助け合いの姿を見出せます。

二人の会話に、「主の言葉の実現を信じる幸い」がありました。ここでの主とは神さまです。でも、この二人の信じる過程は、信心一辺倒ではない。エリザベトの場合は、「私は老いています」と言います。マリアも先週の通り「あり得ない」と言います。疑いや不安を持ってしまうのです。でも、それでよいのです。立派な信仰や完全に委ねる思いはこの際不要なのです。不安の中でも、一篇の頼りを持つことが大事なのです。

マリアは3ケ月の滞在後、ナザレに戻ります。大まかな計算ですが、往復に4か月を費やしたものとすれば、合計で7か月です。更に身重の体で即座にナザレからベツレヘムへ2か月かけて行きます。この二つの旅は、マリアを奇異の目から守るためのものでした。神さまは、この一人の少女の人生の一場面を、良いように計らって下さったのです。本日は教会でクリスマスを迎えています。私たちは今日この日まで、いわば旅を続けてきました。また一週間の旅が始まります。神さまのお計らいの中で旅路を行くものでありたい。
 

2015年12月13日日曜日

12/13 礼拝献花とメッセージ


 本日も、徳山C、防府C、柳井Cでは礼拝が行われました。
写真は徳山Cの献花でした。

いよいよ来週は、クリスマス礼拝が行われます。
どなたでもご自由にいらしていただけますので、ご自由にお集まりください。

12/20(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 12/17(木)には、
       益田14:00~ 
        六日市19:30~です。

本日の説教要旨です。



【ルカ福音書12638節】
人生の夢や設計図というと「青さ」を思います。主の母マリアは、絵画や劇では可憐な少女として描かれています。実際の年齢は主妊娠時、14歳ほど。当時は立派な大人の一員でした。結婚を控えた少女の夢や設計図は何か。旧約聖書の伝統に従う者として「産めよ増えよ」を期待していたことでしょう。しかし、その夢や設計図が天使によって一夜にして崩壊したのです。

「おめでとう」という天使です。「嬉しい、良かった」いわば最大級の賛辞です。しかしマリアは、何がおめでたいのかと戸惑います。続けて天使はマリアに多くを告げます。神の共在と恵み、妊娠、子が偉大と。天使のこれらの言葉は、この時期以外に聞けば喜ばしいものです。しかし結婚前の妊娠が公然となれば身の破滅です。「姦淫の女」として町辻で石打刑に処せられます。しかも、夫たる人が第一に石を投げ付け裁くのがご定法なのです。マリアの心中はいかがか。

結婚するのは天使でなくマリアでした。夢や設計図は脆く崩れます。私たちが注目したいのはここからです。マリアは自分の人生に終止符を打ち得ましたし、また誰も知らない遠方に旅立つことも出来ました。だがマリアはどれも選ばず、「お言葉通り」とみ言葉の実現を願うのです。信仰とは期待すること、自身の問題がどうに導かれるか希望することです。短い時間に、マリアは確かにこれまでの設計図を破られましたが、即座に新たな設計図が与えられたのです。

自分の夢や設計図を持つ私たちです。それが壊れる時があります。だが神は、そんな折も必ず新たな道行を指し示して下さるお方なのです。一例を申し上げましょう。マリアの出産期に合わせたかのようにして、住民登録が発令されました。マリアは日々大きくなるお腹を、住まう町ナザレで他者から観られなかったのです。神はマリアの恐れや不安を知り、「住民登録」という必要で具体的な手立てを取ったのです。神が共にあるということは、日々導かれることです。
 

2015年12月6日日曜日

12/6 クリスマスイルミネーションと、献花とメッセージ


 徳山教会のクリスマスイルミネーション、また投稿します。
そしてこちらは本日の献花です。

 本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
 徳山は礼拝後、トマトパスタの愛さんを頂きました。
 
 町中もクリスマス一式、教会はもとよりクリスマスの日に向けて
 待降節の時期を過ごしています。

 来週も礼拝は以下の日程で行われます。
 どなたでもご自由にお越しください。

 12/6(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 12/3(木)には、
       益田14:00~ 
        六日市19:30~です。

本日の説教要旨です。



【ルカ福音書316節】
週日教会を利用される方々は、様々な用途で教会を用いられます。看板をじっと見る人々。聖書を開く人々も中にはいます。先にも一人が聖書を開き「凄いですね」と感想を漏らされました。聖書には人名や事柄が列挙されています。聖書の敷居を高めるかもしれない。今日の聖書冒頭部分も人名が羅列されています。これらの人物は主と同時代の人で、中には主の十字架の原因、遠因の人々が記載されているのです。

ティベリウスは時の皇帝、ヘロデとフィリポはユダヤの地方領主です。やがて弟フィリポの妻をヘロデが欲し、洗礼者ヨハネに非難され、ヨハネはそれが元で斬首されます。ヨハネの死後、主への注目が厳しさを増すのです。そしてアンナスとカイアファはその宗教団体の取締りでした。これらの人物が職に就いている時、ヨハネも活動開始したのです。「主の道を整えよ」と。冒頭の事実の列挙は、神の救いの歴史とこの世の歴史とが重複していることの証しです。

ヨハネは後半でイザヤ書を引用します。中に「谷,,,曲道や凸凹道」があります。ヨハネはユダヤの世相や、厳しい世に生きる人を想起しつつ、これを引用したのです。「谷山の道を行くような人々、曲道や凸凹道に困惑する人々」を想起するのです。そして「主の道を真っすぐに」。困難な道でも主へと通ずる道は真っすぐにと訴えるのです。それらは私たちへの言葉でもあります。「主へのまっすぐな心」はなかなか持ちえません。

何度も言うが、聖書や主は私たちを困らせないし、望まない。主は別福音書「私が道」と言われます。私たちの道は主と共なる道なのです。聖書は、人名の記述を通して、主に多くの人が関わったと記す。私たちの歩みもまた複雑で多くの人が関わるものです。その中で神は相応しい時期に人を介し、主との出会いを備えられるのです。
 


2015年12月1日火曜日

11/29 教会クリスマスのご案内と献花



11月29日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
それぞれの教会で、クリスマスの準備が進められています。

動画は徳山のクリスマス紹介です。
JR徳山駅ではクリスマスイルミネーションが凄いようですが、
(実は私はまだ見たことがありません。夜は寒いから)
徳山教会のものもなかなかです。

ちなみに以下は昨年のものです。


来週も礼拝は、 以下の日程で行われます。
 どなたでもご自由にお集まりください。

12/2 追記 今年の動画で用いたのは、JOHN RUTTERの
「ANGEL'S CAROL 」です。youtube から、個人で聞くためにダウンロードしたものです。https://www.youtube.com/watch?v=KOIhzqutZuQです。

 
 12/6(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 12/3(木)には、
       益田14:00~ 
        六日市19:30~です。

本日の説教要旨です。




待降節第1主日 聖書の学び
マルコ1928-40「小さなロバに出来た仕事」 
【用語説明】
・先立つ主(28)…顔を向ける、との意味。主はご自分の死と復活を見据える
・賛美(38-39)…主誕生時の天使賛歌と、言葉が似ている。無い言葉もある
・天には平和、至高に栄光(38-39)…弟子の群れの讃美歌。良く注目。
・天には栄光、地に平和(ルカ214)…天使の讃美歌。地の平和がある。
・石が叫ぶ(39)…見当違いの讃美歌でも、主は喜んで受け止められる

【概要】
イエスさまを賛美する、という意味での最古の讃美歌は、この一年私たちが読むルカ福音書の、主のご降誕の時の天使の歌でしょう。天使は主の降誕に際して、羊飼いたちに「天に栄光、地に平和」と歌います。主は「天に栄光を帰す」つまり神のみ力をより栄えさせ、「地に平和」を完成させると歌うのです。天使たちは、生まれた赤ちゃんイエスさまに、栄光と地の平和の源を見たのです。

同様の歌は、主のエルサレム入城に際して歌われます。弟子たちが主を賛美して「天に平和、至高に栄光」と言います。主誕生時の讃美歌を弟子たちは微妙に変えて歌うのです。つまり「地の平和」の文言を入れず、歌わなかったのです。天使は「地の平和」という祈りや願いを込めますが、弟子たちは主が「天の栄光や平和のみ」成すと感じたのです。主の、ロバの子に乗る姿に影響されたのでしょう。目に見えるものに人は弱いのです。

主は地の平和を成し得るか、成し得ないのか。地上を生きる「私」の平和は成し得るでしょう。平和と混乱のるつぼに生きる私たちですが、主が平和を下さると信じています。一方、世界は混乱の最中。平和は益々遠ざかる。天使が夢を語り、弟子たちは現実を見ていた、ということでしょうか。実際弟子は「天の栄光と平和」は歌えても、「地の平和」を歌えない。ロバの子という頼りない動物を選ぶ主に違和感を感じ、違和感が伝わり、エルサレムの群衆の数日後の「十字架に架けろ」の罵声となったのです。

【使信】
弟子たちは、十字架間近の主に、平和を見られませんでした。当たり前といえば当たり前でしょう。あえて言えば、この登場人物の中で、この聖書では唯ロバの子のみが主を理解していましたのです。子ロバは主を黙々と運びます。ロバの子は背に乗せる者をも低く見せますが、主は「入用」と言われます。そして主を運ぶ者とされます。地の平和の実現は、私たちから遠く難しいものです。しかし私たちはこのロバの子になれないか。歩みは遅くとも自分なりに、私らしく、主を運ぶ者となれないでしょうか日常の歩みが、主を運ぶものとされていることを感謝し、改めて受け止めたい。