2015年4月26日日曜日

4/26 礼拝と説教メッセージ、献花、甲斐先生就任式



本日の礼拝献花です。かわいらしいピンクと白の共演です。春の盛りですね。


また、シオン教会にこの4月から着任された甲斐友朗(ともあき)先生の、
本日は就任式が行われます。

すこし早目に教会に着かれた甲斐先生と、教会の方々です。

本日の徳山チャペルでは、礼拝と愛餐がいつものように行われました。

来週も礼拝は、それぞれのチャペルで行われます。
いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にお集まりいただけます。

 5/3徳山10:45~
   柳井10:30~
   防府15:30~
 4/30(木)には、
 益田14:00~
 六日市19:30~ です。

本日の説教要旨は、以下の通りとなっています。



【ヨハネによる福音書2115-21節】
18節の主の言葉はペトロの将来を暗示するものです。また、この言葉は私たちにも実感をもって受け止められるものでしょう。年齢が加わると、様々な点で不自由を感じます。しかし聖書は年齢の増幅、そして死をもを「神の栄光」と語ります。神さまは、その働き、み業を私たちを通して為すということなのです。詳しく見て行きましょう。

聖書は主がペトロに三度愛を問う箇所。主とペトロとの掛け合いは、原文ではより真相が伝わります。解釈は多様ですが、主は二度目まではペトロにアガペーの愛を問います「大切にするか」と。しかしペトロは二度目迄もフィリオの答えを為す「好きです」と。以前のペトロなら当意即妙に応答したでしょう。ここでは応えられないペトロの姿があります。

主はペトロが罪の重荷に苦しんでいることを承知していました。だから三度目「好きか」の問いに変更したのです。そもそも人に神の愛を求めるのなら、それはもう「神の愛」の名に値しませんね。神さまの愛は無条件なのですから。むしろここで主は、問いではなく愛を伝授したい心持ちと考えます。なぜなら主は二度目迄「アガペー」の言葉を用いるからです。主はペトロに、神さまの愛を伝える意図で、愛を問うたのです。

主はペトロを通して神の愛を表明、栄光を表されます。ペトロが完全無欠ならば主の出番は必要ありません。むしろ欠けが目立つペトロ故に、主は愛を示すのです。コリント書には、人を土の器と評する箇所があります。当時の器は素焼きでヒビや欠けが目立つものです。しかし人は唯の素焼きの器ではありません。宝即ち主を持つ器です。欠けや綻びが多ければ多い程、主はその姿をその人を通して示すのです。栄光を表すのです。この世では欠点は誹りや非難の種ですが、主は私たちをも用いられます。誠に感謝。

2015年4月19日日曜日

4/19  教会の植物と礼拝メッセージ


 教会の玄関前には、樹木が植わっています。
 今ちょうど新緑の頃です。下に咲いている花たちと色合いが映えています。


 本日も礼拝が守られ、その後愛さんが行われました
 「タケノコ尽くし」の愛さんでした。

 来週も礼拝は、それぞれの日程に従って行われます。

 来週も礼拝は、4/26(日)に行われます。
 徳山10:45~
 柳井10:30~
 防府15:30~
 4/23(木)には、
 益田14:00~
 六日市19:30~ です。いずれの礼拝も、どなたでもお越しいただけます。

 本日の説教要旨です。
 

【ヨハネによる福音書211-14節】
自然の景観物の名称は、時代状況で変化します。ユダヤ北部には湖があります。旧約時代は、ユダヤの伝統的な楽器「琴」を意味する「キネレト湖」と呼ばれ、主の時代には「ガリラヤ湖」、以降は「ティベリアス湖」となります。皇帝の名前です。ユダヤの人々には、民族の良さを示す湖が、皇帝の名を冠する湖へと替えられてしまったのです。

また、主の弟子ペトロも、意図せずの変化を遂げます。自身を取り囲む状況の変化の中で、ペトロ自身の保身は叶いましたが、志は挫けた。主の十字架以後、主の思いを継いでの宣教者ではなく、市井に身を隠し、元の商売に精を出すペトロです。漁に出る物の、不漁でした。復活の主が彼に近づくも、その日の糧を得ることに精一杯です。

イエスさまは「網を打て」と言われます。これは漁師だった弟子たちが、初めて聞いた主の言葉でした。夢破れたペトロたちに、主は再度この言葉を語ります。反応するペトロです。湖に飛び込み、自身を恥じます。時は3月、湖水は冷たい。陸には炭火がありました。主のご配慮です。かつてペトロは主を否認した際、大祭司邸で炭火に当たります。今またペトロは湖畔で暖気を得ます。まことの暖かみがペトロを覆います。

捕れた魚は153匹でした。ユダヤには「ゲマトリア」という思想があり、数に意味を見出す学問です。それによると、「153」は「神の子」を表すのです。主は魚を取る事で、神の子たちを再捕獲するという解釈が成り立ちます。加えて、この聖書での強調点は、変わらずに愛する主の心です。変わりゆく湖の名称や人の心の変遷の中、主は変わりません。この後主はペトロに愛を問います。幾度にも及ぶ問いは執拗さすら感じさせますが、それ以前に彼の冷えた心を暖める主です。変わらぬ主の姿に感謝です。


2015年4月12日日曜日

4/12 益田、六日市イースター & 徳山の教会近況

 まず益田教会のイースター礼拝、その1です。
額の「トロッケンゲビンデ」(木の実や草などを用いる芸術品)のテーマは、
「墓の中の天使」だそうです。イースターですね。

 
益田教会の礼拝堂は、この時間、日差しが十字架を形作っています。
卵はイースターの慣習で、徳山からのものです。

  ついで六日市礼拝のイースター。


  こちらも徳山からの卵です。
 ゆで卵をイースターに、という慣例が続きますね。

さて、本日の徳山礼拝の献花でした。
 
 今日も礼拝は守られ、愛さんはピースご飯、エソの澄まし汁を頂きました。

 来週も礼拝は、4/19(日)に行われます。
 どうぞお越しください。

 本日の説教要旨です。

 

教会には幾つかの伝承があります。聖書理解を深めるための、先人たちが考案したものです。マグダラのマリアに関する教会行事上の伝承は、イースターエッグの元祖ということです。時の皇帝に紅く染めた卵を献呈し、イエスさまの復活を説明した、という機知溢れるものです。ところが聖書は「七つの悪霊」支配下にあった彼女を語ります。

しかし「七つの悪霊」の詳細については分かりません。複合的な疾病を癒されたのが彼女でした。今日の聖書では、復活の主はまず彼女に会うのです。しかし人々は「信じない」。人々の心持ちは察して余りあります。主への面目無さ。死者の復活の否定、そして証言者がマリアであるということ。それらが加味されて「信じない」状態なのです。

やがて主は「信じない」人々に自身の復活を示されます。「不信仰と頑なな心を叱る」主。叱る位なら当初から自身で示せばよいと私は当初思いました。証言者はマリア、当時女性の証言は軽き物と看做されます。マリアを証言者として用いることは、証言その物が非受容の可能性があるということです。それでもマリアを用いた主の心は、エルサレム入城時にロバの子を用いたものと重なるのです。主は、どのようなものでも必要とされます。

 使徒たちは解さずに主の「ロバの選び」すら忘れる。しかしそのような弟子、解さず忘れる弟子たちに主は継続して会います。信じられたことにより信じた弟子たちなのです。「不信、恐れ、逃亡」したのが当初の弟子たちでした。けれどその人々を諦めない主の姿に私は感銘を覚えます。聖書の話は私たちへと続くのです。主はその折その折の私たちに即して働いて下さいます。主の愛は、日々の私たちと共にあるのです

2015年4月5日日曜日

4/5の礼拝献花とメッセージ

  本日の礼拝献花です。色とりどりですね。
 本日の礼拝では、就職、高校入学、小学校入学、幼稚園、保育園入園の
 信徒家族を覚えて祈りました。

また洗礼式も行われました。昨年9月に誕生した幼子が、
 神の民の一員とされました。
 新規に奉献された洗礼盤も、初めて用いられました。

 教会の礼拝後は、礼拝堂で卵探し(イースターの恒例行事ですね)
 一品持ち寄りの愛さんが行われました。

 来週も礼拝は、4/12(日)に行われます。
 徳山10:45~
 柳井10:30~
 防府15:30~
 4/16(木)には、
 益田14:00~
 六日市19:30~ です。いずれの礼拝も、どなたでもお越しいただけます。

 本日の礼拝メッセージの要旨です。

 

【マルコによる福音書161-8節】
ただ今のカレンダーは日曜始まりが主です。日曜暦はキリスト教的脈絡の中で生まれました。即ちイエスさまの復活が根拠なのです。本日はイースターです。ところが原初のイースターは寂しい始まりです。墓参りの婦人たちの会話から始まります。既にイエスさまは処刑された後でした。お墓参りのご婦人方の心には、問題が山積りでした。

時は安息日後です。安息日後の日は、リフレッシュして本来的には新たな気分です。ところが「ブルーマンデー」という言葉がありますね。婦人たちも同様の心持ち。そもそもイエスさまが不在、墓には番兵が居ますし、たとえ番兵を交しても「非常に大きな石」が墓を塞いでいました。しかし「石は無かった」婦人たちの心配は顧みられたのです。

墓に入りますが、若者がイエスさまの復活を告げます。でも婦人たちは驚いて、逃走、沈黙を保ちます。ここでの若者の言葉の意図は二つあります。一つ、「人」の行く手を定めるのは神さまだということです。婦人たちは己で「墓参」を日課と定めましたが、それは覆されました。二つ、どのような「人」でも主は覚えるということです。若者の言葉の中には、不自然な人名が登場しています。それはあのペトロなのです。

この時ペトロは恐らくエルサレム市内で懺悔と後悔の時を送っていたことでしょう。ブルー以上にグレーな心境でした。けれどもそのペトロの心を晴らす知らせが、「あの方がガリラヤで待つ」という言葉。それがペトロにとっての福音だったのです。聖書には福音という宝が内包されています。日曜日に、私たちはこの宝を頂きたい。そして休んで身近に福音を語るものでありたい。「人に力を与える言葉」という福音を。