2015年3月29日日曜日

3/29 献花と礼拝メッセージ

  「野の花を見よ」との聖書の言葉(マタイ6:28)が、
今日は玄関に反映されました。そして、

礼拝堂にもこれこの通り。白、紫、黄色が、赤の床、青のガラスに
まけじと引き立っています。

 本日も礼拝が守られ、礼拝後には豚汁とご飯の愛さんが行われました。

次週の礼拝も、どなたでもご自由においで頂けます。

4/5(日)10:45~となります。

本日のメッセージは以下の通りです。



説教要旨】 マルコによる福音書1427-31.66-72節 
ペトロはイエスさまのお弟子さんです。「ペトロ」の名の意味は、割れ石、細石です。実際に、マルコ福音書では彼の調子外れの言動を見出すことができます。子ども染みたものです。ただ福音書がそのようなペトロの姿を残すのは、単なる批判ではありません。いわば、彼の成長の記録なのです。今日の聖書はペトロの弱さと共に、弱さを見越した主の恵みの記録です。

福音書一か所目は、イエスさま逮捕直前の場面です。イエスさまはお弟子さんたちの躓きを予告します。でもペトロは躓きを拒みますが、言い草がこ憎らしい。「私は躓かない」迄は良いのですが、「みんなが躓いても」とある。何と言う言葉か。他の弟子たちを引き合いに出しつつ、自身の強さを強調しています。福音書はここでのペトロの「力強さ」を記録に残します。

だが数刻後、警備兵乱入と共に、弟子たちは全員逃げます。立派な言葉はどこに行ったのでしょうか。ペトロのみはどうにか留まって、主の裁判に行き、主との関係を詰問されています。ペトロは主との関わりを三度否定します。数時間前までは「力強く」語っても、実際は怖い。後悔の涙を流すペトロですが、自分の真の姿を知ったのでしょう。主との一たびの別れです。

 イエスさまは一か所目で「あなた方より先にガリラヤに行く」と言われます。その後弟子たちが逃亡し、ペトロの弱さが露呈してもイエスさまの約束に変わり無しなのです。主は十字架に付けられるが、それでも約束は継続します。復活の主は若者の口を通して「ペトロに告げよ、ガリラヤで会おう」と言うのです。その主は、どのような自分であっても約束を完遂されるのです。それは私たちも同様に備えられた恵みなのです。主の言葉に日々変えられることは感謝です。

2015年3月22日日曜日

3/22 教会の周辺と礼拝メッセージ


教会の周辺の庭では、今こんな花が咲いています。
 この1週間も、三寒四温との予報ですが、春はそこまで。

 本日も礼拝が守られました。連休の中日ですが、
 子どもたちが大勢集う日曜日でした。

 来週も礼拝は、3/29(日)10:45から行われます
 どなたもご自由にお越しいただけます。


 本日の礼拝メッセージです。




説教要旨】 ヨハネによる福音書1236-50節 
聖書は、その文脈の中で「愛」を三つの言葉で表現しています。それぞれアガペー,フィリオ,エロスというものです。何れも「愛」を表す言葉ですが、「神愛,友愛,人の愛」と意訳することが出来ます。神と人とはこの「神愛」で結び合わされています。それで主の「これらのこと」は受難予告。その予告を「信じない」人々のところにも、実は神さまの愛が及ぶのです。

イエスさまの時代、ユダヤ教が恐れた事は「個人」への信仰が広がることでした。イエスさまの教えは、優しく明解でした。しかしそれが「イエスさま個人への崇拝」に繋がりましたし、既存の宗教者には目障りで嫉妬の対象でした。だからイエスさまは後半で宣言されます。「私への信仰は神への信仰」。既存の批判の矛先を交す狙い。敵対するのでなく一致を願うのです。

それでも人間の嫉妬心は怖いですね。主の言葉尻を捉えて攻撃する当時の宗教者たちです。イエスさまは最後に「私自身の言葉は神の言葉」と言われますし、神の言葉として、「裁き無し」を語るのです。これが引っ掛かりました。当時の宗教システムは、神の怒りと裁きを基軸に置いたものでした。主ご自身、愛と優しさを語るも、当時の制度上は非受容だったのです。

注意したいのは、「裁き無し」と言われるイエスさまですが、「拒否する者や、受け容れない者には裁く」と言われます。どちらがイエスさまの真意なのでしょうか。結論は「裁きがある」のです。しかし主はその裁きを「有名無実化」したのです。やがての十字架で全ての罪を背負い死に、復活なさいました。だから「裁き無し」になったのです。「主が共にある」ということは、どのような選択も、主と共に担うものだということです。神さまの愛は私たちを導く。
 

2015年3月15日日曜日

3/15 礼拝献花とメッセージ

  本日の礼拝献花です。いつもとは少し趣を変えた方向から。

  今日は教会で、教会員が主催する音楽教室のコンサートが行われました。
 始まりには、子どもたちの合唱。
この後、一人のこどもが恥ずかしがって逃亡!

 本日も礼拝が守られ、礼拝後にはおにぎりとお味噌汁、玉子サラダ、フルーツサラダの愛さんが行われました。

 教会の全ての集会はどなたでもおこし頂けます。
 来週も礼拝は、3/22(日)10:45~行われます。
 本日の メッセージです。

 

ルターはこの316節を「小聖書」と呼びます。特に16節以前を読むと、ルターの意図が分かります。13節「モーセが荒野で蛇を上げた」。蛇は、旧約の伝統では忌避されつつも好まれるという二重性があります。即ち蛇は、害毒と癒しの象徴。主は蛇の高挙と自身の十字架を同じに扱います。即ち「十字架刑」へのご自身の理解は、傷ついた人々への癒しの意味なのです。

何といっても、16節の言葉は真に有名です。ただ、より深く意味を知る鍵言葉は「滅び」。神が、み子を与えたその理由は「滅び」を防止するためです。「滅び」とは聖書頻出の言葉です。ルカ15章。羊飼いは羊を,婦人は銀貨を、父親は息子を愛します。だが羊も銀貨も息子も主人を「離れ」ます。「滅び」なのです。言葉は強烈だが、あるべき場所からの喪失なのです。

人の本質的な居場所は神のみ許です。だが人は地上の生涯で「滅びの道」を行くものです。それは「荒野の蛇」が証ししています。出エジプト時、ユダヤの人々の空腹を見て神はマナを与えます。人々は当初満足しますが、飽きて不平不満を言います。神は悲しみ怒り、炎の蛇を下すのです。けれど神は「炎の蛇」は送りません。代わりにみ子を送った。まさに「小聖書」です。

「与えた」とは所有権の移譲です。この世に顕現され2千年。今週も私たちと共にあるのです。かつて神は炎の蛇を送りました。私たちも、現実的に自身を傷つけるものを思います。私たちが炎の蛇となり得る可能性もあります。あの弟子たちのように。それでも他の弟子が言います。「艱難,苦しみ,迫害,飢え,,危険,剣も、キリストの愛から私たちを離し得ない(ロ8)」と。聖書的に今や主の所有権は私たちです。その実、私たちを所有する主イエスさまを思います。

2015年3月8日日曜日

3/8 礼拝献花とメッセージ

  本日も礼拝が徳山では守られました。
 赤の花ですが、いずれも系統の違う赤です。
 朱のバラ、赤いチューリップ、紅い梅、緋色の絨毯。と思います
 色の正確な使い分けは分かりませんが、素敵な献花感謝です。

  また本日、水原牧師は柳井チャペルでの礼拝を行いました。
 柳井チャペルの献花もあります。こちらは青いじゅうたんです。

なんと今日は豪華。益田チャペルの新装された礼拝看板もご披露。

 来週も礼拝は、3/15(日)10:45~行われます。
 どなたもご自由にお越しいただけます。

 本日の礼拝メッセージです。
 

説教要旨】 ヨハネによる福音書213-22節 
皆さまのお支えで、教会は成り立っています。感謝なことです。今日の聖書は、献金や収益事業への厳しい言葉が語られ易い箇所ですが、主はそのようなことは云われません。主の時代の、神殿商人たちの不埒さに主は憤られるのです。献金とは、神さまを思い、同胞を思う心の精一杯の現れです。その献金者の心持ちが商人や宗教者に崩される状況が当時のユダヤでした。

「父の家は商売の家ではない」と言われます。ここで注意したいのは、境内で商売を行う是非ではありません。不当な利得を得る人々への憤りと、純粋な心持ちで捧げ物を奉げた人々の心が軽んじられていることへの、主のいわば義憤です。祈りの心をもって捧げられた献金から、手数料と称し懐に入れる当時の制度をお叱りになられた。主は「祈りの心」を重く見られます。

実際、主が語った年代と、この福音書が書かれた時代背景には差がございます。主の時代、神殿は敢然として立ち、一方で主は単なる反逆者扱いでした。神殿が崩れると語る主は夢見者でした。しかし福音書の時代、豪壮な神殿は壊され、一方で主はその言葉をもって多くの人を生かしていました。十字架で主は「倒されても」三日後に「立ち上がる」使信がその基でした。

この商人は、宗教者と共に結託し、主を十字架で処刑してしまいます。しかし主は復活なさいました。何ものにも倒されないことを主は証明されたのです。この主の姿を私たちは勇気をもって受け入れたい。世に生きる限り「打倒される」経験は常に隣り合わせです。主は「三日で復活」したが、私たちは立ち上がるのに日数が要ります。しかし安心したい。私たちに求められているのは、自力での再起ではありません。私たちは、この再起の主に結ばれる群れです。

2015年3月3日火曜日

3/1 礼拝と東京での按手式

本日の投稿は、素敵な男性二人の写真です。
 右の男性が、4月からシオン教会防府、柳井で働いて下さる
 甲斐友朗先生です。手にしている封筒は、シオン教会からの
 お土産です。

  メッセージなさる甲斐先生
後ろには、同期の桜。

  3/2の徳山は、いつものように礼拝が守られました。

 本日の礼拝メッセージです。来週も礼拝は、3/8(日)10:45~
 行われます。

 

説教要旨】 マルコによる福音書1032-45節 
イエスさまはご生涯の最中、「受難予告」を3度なさいます。イエスさまとしての意気を込めた予告ですが、弟子たちはその予告を誤解して受け止めるのです。そこでイエスさまは今日の聖書で態度を変えられます。「主は先頭に立つ」とあります。珍らしいのです。今までイエスさまは弟子たちと共に歩く。今やイエスさまは従来の態度を変えられ、予告をなさるのです。

ところがやはり弟子たちです。二人の弟子が自己顕示を始めます。「右と左に座らせて下さい」「偉くして下さい」です。上昇志向は結構ですし、弟子と言う男性社会の中にあればこその願いです。苦しみを説くイエスさまに対して弟子たちは、受苦は可能と答えます。確約する彼らですが、主の十字架の際には逃走。「口約束」はいくらでも出来ますが、実行は困難です。

他の弟子たちは当初沈黙を保っています。けれど後半「二人のことで立腹」しています。何故の立腹でしょうか。「主のことを理解しない」という憤りか、抜駆けや自己顕示への憤りかもしれません。イエスさまは全ての弟子たちを戒めます。そして二度目の受難予告までには無かったことを語る。それはご自分の受難予告への意味づけ「全ての人に命を奉げる」です。

イエスさまのお言葉は、弟子たちの中に静かに浸透したのでしょう。十字架の時の体たらくは兎も角、その後弟子たちは、いわゆる「全うな最期」を遂げる者は無くなります。このヤコブは殉教、ヨハネは遠島の刑になりました。だから主は冒頭で「あなた方はやがて杯を飲む」と告げられたのです。直近では二人は命を惜しむ。しかし主は直近だけではなく、背きの罪だけでもなく、二人の生涯全体を見通されます。イエスさまは、私たちの生涯を見通して下さいます。