2014年12月28日日曜日

12/28 献花と礼拝説教






 もうすぐ新年です。
 教会の本日の献花も、新年を思い起こさせる装いとなりました。

 礼拝は感謝のうちに守られ、その後愛さん、そして礼拝堂内外の
 清掃が行われました。

新年の礼拝は、1/4(日)10:45~行われます。

本日の説教要旨です。




説教要旨】 ヨハネによる福音書21-12節 
大好きな聖書です。さて、明治期にキリスト教は主として米国から至りました。教会の根底には「清貧」思想がありました。それが今日まで続いているでしょうか。主の時代は、主ご自身は当時の「制約」に抗った側面があります。聖書は結婚式の場面です。主は、水をワインに替える奇跡を為されます。奇跡は個人的/集団的なものがありますが、これは集団性の奇跡です。

結婚式でワインが無くなってしまいました。母マリアは主にワインの欠乏を告げます。主は一旦は「関係なく、時未だ」と断ります。でも母は強しです「この人の言葉通り」と僕たちに告げます。これと似た母マリアの言葉は、受胎告知の際、天使に対して「お言葉通り」と言うのです。あの時もこの時も、神や主の計らいを信じる母マリアの姿。神や主は、信頼や信仰を退けないのです。

そして主は水甕に満タンを告げます。その水は「清め」のためでしたが、ワインに変えられます。「清め」とは、宗教的な意味合いがありました。人に「穢れ」を見い出したのがユダヤの人々です。主はだが「穢れ」なるものがあるのかどうか、それを疑問視され、共に喜ぶしるしのワインを生成。「三日目」即ち主の登場から数え一週後の日に、穢れでなく喜びを味わう群れを築く。

そして主の創造したワインの総量は600。一升瓶330本分です。到底飲み尽くせない量です。そして主や家族弟子たちは、そのワインに口を付けず移動しました。後に続く人々に残す意図です。即ち恵みが後に続く者にある、ということです。私たちは無論、この恵みに預かり得るし、後の人々にも同様です。この出来事の契機は、委ね切る母マリアの信仰と、委ねる思いを退けない主の言葉です。委ねる思いを学びたい。そして共に祝い喜ぶ共同体を想起したいですね。
 

2014年12月21日日曜日

12/21 礼拝献花とメッセージ

本日の礼拝献花です。ユリの背後から出ている枝が、何か生命力を感じさせます。

本日は、先般作成された洗礼盤の奉献式もありました。
礼拝後には、クリスマス祝会として、祝いの食事会(持ちより)が行われました。


徳山のクリスマス・イブ礼拝は、12/24(水)19:30~行われます。
 また次週の礼拝は、12/28(日)10:45~行われます。
いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にお集まり頂けます。

本日の礼拝メッセージ要旨です。



説教要旨】 ルカによる福音書119-28節 
親は子に願いや望みを託すものでしょう。聖書登場の父の名はザカリア。当時の職業観は世襲。従って父の祭司職は子に引き継がれるという慣例でした。ザカリアの職業は祭司。超エリートでした。グループ名はサドカイ派。でも子は父の思い通りには成らないものです。子はやがて父から離れ冒険します。グループ名はエッセネ派。しかし、思う通りに成らなくても、親の思いはきちんと通じます。

聖書内容の一つは神賛美。神は「聖なる契約」を成就されると言います。旧約聖書の内容の簡易なまとめは、神さまの約束と、遵守不能な人間の姿です。殆どの預言者は約束の履行を求め、厳しく告知しますが、中には「新しい契約」として、神さまによる「赦し」を語る預言者もいるのです。その新たな契約を神さまは実行なさろうとしている、と賛美しているのです。

二つ目は我が子への期待の言葉です。具体的には「罪の赦しと救いを知らせる者となる」です。実際、ヨハネは、世の罪を告発し、救いを賜う方を語ります。これまでの預言者の殆どは「告発」のみでした。だがヨハネは「救い」も語るのです。苦労を重ねてきたユダヤの人々の、辛く悲しみの深い歴史に神さまが光を照らすと。子どもはそのために用いられる期待を、父は語る。

実際、老齢期の我が子誕生だから喜びでしょう。「曙の光」や「暗闇と死の影を照らす」との言葉があります。父の子への願いは違っても、息子は父の期待に答えたのです。私たちへの話です。皆さんは、今其々の「親」としての思いをお持ちでしょう、また「子」としての現状をお感じでしょう。だが今現在、用いられ、その備えをしているのです。クリスマスは光の祭典です。育児も,経営も,務めも、学びも、仕事も、皆さんの「今」の全てが必要とされているのです。

2014年12月16日火曜日

12/16 徳山チャペルイルミネーション 第二弾


2014年の徳山チャペル クリスマスイルミネーションと、
教会内のクリスマスの様子です。第二弾。なんとツリーの頂上に、十字架が付けられました。

音楽は、 angel’s carol
 アメリカのJohn Rutter氏による編曲です。
本家はyou tube:https://www.youtube.com/watch?v=WFXTaq_Qtvg

動画作成は、Windows付属のmovie maker

2014年12月14日日曜日

12/14 礼拝献花とメッセージ

本日の礼拝献花です。
きれいなユリの花が、黄色く咲くのはいつでしょう。
礼拝堂も週日は冷えていますから、来週の日曜日までには咲くのでしょう。

本日は、大根とさつま芋、いずれも冬の野菜のみそ汁と白ご飯を頂きました。

来週も礼拝は、12/21(日)10:45~行われます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



神さまは、どういうわけか私たちの人生の苦しい最中に出会って下さるものです。シオン教会・益田Cで奉職なさった故・石橋師が「足跡」という詩を訳しておられます。圧巻なのは、道を行く人が一組の足跡を指し「なぜ辛く苦しい時に一人にしたのかと」問うと、応える主は、辛く苦しい時は私が背負った、という箇所でしょう。聖書は、私たちに共なる神を語ります。

今日の聖書にも「荒野」が登場します。冒頭で彼は「あなたはどなた?」と馬鹿丁寧な詰問を受けます。その実は尋問で、不審者扱いなのです。ヨハネは自分を「メシア,エリヤ、預言者」ではないと答える。そして「あなた方の知らない方」の存在を告げる。つまり彼は「その方を知る」ということです。既に彼は、何ものにも代え難いお方を得ているのです。その方こそ主でした。

荒野とは生気の無い場所でしたし、ヨハネは自己を「何者でもない自分」と理解していました。だがその荒野で彼は洗礼を授けています。洗礼は、「罪」からの解放を意味しています。罪の負い目の中で生きざるを得ない人々に、喜びを与えたのです。それは共に生きる主でした。この時は未だガリラヤの片田舎に主はいました。主が、共に歩むお方と証ししたのがヨハネの役割です。

ヨハネは、神さまとの出会いは荒野で起きたと告げ、それ故に、その喜びを他者に洗礼という形で分かち合ったのです。私たちへの話です。主との出会いも人生の荒野で起こり、様々な行き詰まりに当たる中で主は導きます。なぜ私たちは過去の荒野を行けたのか。それは主がその荒野の中で私たちと直接、間接的に出会い相応しい助けを用意したからです。だから現在も未来も私たちのゆく道に神は良きを備えて下さいます。主と共なる歩みが証しとなるのです。


  


2014年12月7日日曜日

本日の礼拝献花でした。先週に引き続いて、白い小ぶりのかわいらしい花が
 周辺を覆っています。

 本日の礼拝は、聖餐式を伴うものでした。
 小さな子どもも含めて、神さまの祝福に預かりました。
 礼拝後は豚汁、しそわかめのおにぎりを頂きました。

 来週も礼拝は、12/14(日)10:45~行われます。


  これは現在制作して頂いている、「洗礼盤」です。

  別角度から。中央のくぼみには、今まで用いていた
 素焼きの陶器の洗礼盤が入れられるようになります。
 今あるものが用いられる。素晴らしいですね。

これが、フタになるということです。
 やがて頂上には、十字架が付けられるということです。

 本日の説教要旨は以下の通りです。

 

説教要旨】 マルコによる福音書11-8節 
東アジア文化圏では「道」という言葉に、実際的な意味(道路)と象徴的な意味を与えています。生き方や人生です。そもそも「道」の字は、「首」が始まり、シンニョウは終わりを表すということです。ですから、一言で始めと終わりを表すのです。聖書世界でも、「道」の言葉をイザヤが用いています。即ち、私たちの生き方や人生を整えよということを、イザヤもヨハネも語ります。

ところが、私たちから始まる、神さまへの道はまさに荒野の如しでしょう。路面は荒れ果て、降り口を示す矢印の先は種々の誘惑があります。PASAという名の教会でしばしの整備や補給を行い、ゆっくりと行くのです。「道備え」が旧約からの使信ということは、開通は困難を極めるということです。少しずつ、私たちが荒野を行く中で整えるのです。目標を目指して。

それでも「道備え」は困難。このヨハネの道も同様でした。彼は領主ヘロデと衝突します。人気を恐れたヘロデに権力者の暴を振われます。これがイザヤやヨハネの語る限界。単独作業は難しいのです。しかしヨハネは日課最後「私よりも優れた方」を語ります。イエスさまにはヨハネは師でして、その師を道備えで失う。だから主は私たちに道備えを語らず「私が道」と別書で語るのです。

主も私たちの道が荒廃していることをご存じです。だから「私があなたの道」と語られるのです。注意したいことは、元来の私たちの道は変わりません。み言葉を頂いても、路面は雑で諸所には誘惑があります。躯体は疲労し易いのです。だが、イエスさまの降誕以降、「私が道」と言われた主があなたに同道します。始まりから終わりまでが「道」の意味すること。そのお言葉通り、地上の生涯の完成(終わり)まで、アルファからオメガまで主が同道されるのです。