2014年10月31日金曜日

10/30 益田チャペル防錆工事 施工中


牧師館屋根の防錆工事は、完了しました。
ただ益田地区は、近隣工場のアンモニア臭のため酸化劣化の現状を
抱える建物が多いとのことです。

元来の塩害との加算で、建物維持にはこれまで気苦労を強いられてきました。

錆だらけ、穴だらけのフェンスが、シリコンと錆止めペンキで
コーティングされました。

 隣家を仰ぎ見る角の崩落部分も、しっかりと止めて頂きました。

こちらは二階部分のテラス。同じく シリコンと錆止めペンキで
頑丈に止められました。

一階から二階に上がる階段の、手すりと階段部分も、
何度も何度もペンキを塗って下さったそうです。

2014年10月26日日曜日

10/26 礼拝献花とメッセージ

  本日は、宗教改革記念礼拝の日でした。
 献花は、本日も「野の花を見よ」ということで捧げられています。

こちらは、来るアドベント(待降節)に備えて献品されたものです。

 礼拝は聖餐式を伴って本日も行われました。
 礼拝後には、ムカゴのおにぎり、豚汁を頂きました。

 来週も礼拝が11/2(日)10:45~行われます。
 どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。

 本日の礼拝説教の要旨です。



説教要旨】 ヨハネによる福音書831-36節 
1517年のこと。ローマのシスティナ聖堂の改修費が不足していました。そこで教会は改修金を徴収することにし、各国に献金額を割り当てました。ドイツでは、献金箱にお金を入れると、その音で罪の赦しが得られると公然と説かれていました。ルターは当時の教会の「罪の赦し」の教えへの疑問を発し、宗教論争の結果、プロテスタント教会が誕生するに至ったのです。

ルターの話は聖書にも重なり合わせることが出来ます。「罪の赦し」を為すものは、当時の理解を大雑把に記せば「金銭」。でも今日の聖書は「真理はあなた方を自由にする」と記します。罪からの自由です。主のこのような言動は、面子と収入を潰された指導者から恨まれます。主の十字架への布石です。献金不要論ではありません。先立つのは何かということなのです。

本日の第二朗読にも大事なことが記載されています。「信仰による義しさ」の箇所。この聖書の原文を、二通りに訳すことが出来ます。「主への信仰で義」そして「主の真実で義」です。これも大雑把にいえば、私たちの信仰行為(礼拝、奉仕)以上に、主が十字架で為して下さったことが大切というのです。信仰不要論ではありません。何が第一に来るか、ということです。

 何度もお話ししますが、「天国の鍵」の話がありますね。私たちがやがて頂戴する二冊の本「善行の書」「悪行の書」があります。悪行の書には本来「罪の奴隷」としてまことに多くが記載されている、のでしょう。しかし私たちは、主の十字架以後に生きるものですし、それを聖書を通して常に想起し得るのです。それは「主の言葉に留まる」ことで為し得ます。主が木ならば、私たちはブドウの実。主から多くの栄養を頂く者として、今週も過ごしましょう。

2014年10月23日木曜日

10/23 益田チャペル改修工事開始!

ルーテル教会、西教区からの補助金(正式には、教会育成援助引当金)の
 お助けもあり、益田チャペルの屋根、フェンス錆止め工事が
 今日から始まりました。


日光の加減で碧くなっていますが、実際は赤です。こんなに丁寧に
 して頂きました。上記は、ペンキ塗り後です。

以前は、こんな様子でした。 益田チャペルは、海から数キロの所にありますので、塩害が酷いのです。



作業をして下さっている最中の写真です。今から一週間の予定ですが、
事故なく、無事に行われますよう、お祈り下さい。

2014年10月19日日曜日

10/19 礼拝献花とメッセージ


 「野の花を見よ」とのみ言葉が思い出されますが、
 本日の礼拝献花は教会庭の草花が捧げられました。

 本日も礼拝が行われ、礼拝後には具だくさんの味噌汁と
 おにぎりの愛餐が行われました。

 教会はどなたのおいでもお待ちしています。

 来週も、10/26(日)10:45~礼拝が行われます。
 どうぞお集まり下さい。

 本日の礼拝メッセージの要旨です。新約聖書42頁からです。

 

説教要旨】 マタイによる福音書2133-44節 
私たちは、時に道草や遠回りをしているなと、人生を思います。今日の聖書は「葡萄園のたとえ」です。ここからは元来、主の厳しさが語られました。主は当時のユダヤ人宗教指導者に厳しく迫ります。「かつて神は旧約の時代から預言者たちを送った。だが指導者たちは預言者に傾聴せず辱しめる。遂に神は独り子を送るが、指導者たちは彼を殺害した」というものです。

この話を聞いた聴き手たちは、最後には憤慨します。主が自分たちのことを語っているとは夢にも知りません。それだけ聴き手たちは、無礼な振舞を主にしているのです。聖書の話の労働者たちの無茶には、理解に苦められます。一体何を考えているのか、僕たちや一人息子を苛めれば、葡萄園が自分のものになるとでも思っているのでしょうか。余り賢くないですね。

それでも、愚かさでは葡萄園の主人の方が実は上手なのです。と言っても、その愚かさは違いますね。農夫たちは唯の愚か、主人は愚直。主人は完璧な葡萄園を創造し、管理を農夫に委ね、信じます。どこまでも農夫たちを信じ、共に喜ぼうとし、その働きを労おうとするのです。全ての人への神の愛が語られているのです。主は、聴き手の頑なさを砕こうとされるのです

 主は実際に神に一度は捨てられました。同時に神は主を「隅の親石」としました。神の行いに無駄は無いのです。そして農夫の行いに憤慨した聴き手たちは、数日後同様のことを主に行います。主はこの聴き手たち、農夫たちの為にも死なれたのです。その悪意が打ち砕かれるを願ったのです。さあ「人生には無駄がない」は真理です。何故か。主が共にあるためです。主が私たちの基礎故、時に迷っても良きに導かれます。一つ一つを恵みと思い、過ごしましょう。

2014年10月12日日曜日

10/12 礼拝献花とメッセージ


 本日の礼拝献花です。ユリは古来から、「復活」の象徴として
教会で大切に用いられてきた歴史を持ちます。

台風のさなかの日曜日でしたが、本日も礼拝が守られました。

礼拝後には、ひき肉と玉子のおにぎり、コンソメスープ+チーズパンという
なかなかに栄養価のたかいメニューを頂きました。

来週も、10/19(日)10:45~礼拝が行われます。
どなたでもどうぞご自由にお集まり下さい。

本日の礼拝メッセージの要旨です。新約聖書38頁からです。



説教要旨】 マタイによる福音書201-16節 
聖書には、本当に起こったなら不思議な話が登場しますね。今日の聖書も、不思議な話でしょう。この世の目線や物差しで聖書を読むと、明らかにこの葡萄園は行き詰まります。だが主は初めに「天の国の例え」と言われます。これはつまり、主はこの世に生きる私たちをどう見るか、という話です。さて、朝に雇われた働き人と、夕の働き人とは、働き量は違います。

主人は朝九時の者とは、雇用契約を結びます。だが夕方五時の者とは、契約は結ばないのです。むしろ「なぜ、何もしなかったのか」と問う。答えは「誰も雇ってくれない」でした。ここから、夕方五時の者は無為ではなかったと分かります。立ち続け、仕事を求めていた。雇い主は「仕事を探していた」の声を聞きたかったですし、BEING(居ること)を喜ばれるのです。

さて、賃金支払いの段になります。主人は夕方五時からの者を最初に呼ぶ。金額は1デナリでした。朝からの者はこれを見、多くもらえると思いますが、同額故に憤慨します。ここで雇い主は彼に「最後の者にも同様に支払いたい」と告げるのです。神さまの恵みを表します。神さまは、朝9時からの者にも、夕方5時の者にも、同じように恵みを豊かに下さるのです。

さあ、この話が何を例えるのでしょうか。それは、神さまの恵みと、そのお招きに年齢制限はないということを意味します。神さまは、あなたの人生の若かりし日々にも招くし、夕方頃、つまり、年齢を重ねつつある者にも招き、恵みを豊かに備えられるということです。主のみ許では、何を為すか、何が出来るか、そういうことは問われない。この世はDoing(何をするか)を大切にしますが、主のもとではBeing(居ること)が喜ばれます。それを覚えたいですね。
 

2014年10月5日日曜日

10/5 礼拝献花とメッセージ






本日の礼拝献花、色とりどりの菊でしょうか。
昔から、祈りをもって教会に捧げられたものは、
必要とされる所に捧げられるという慣行がありました。

この礼拝献花も、お身内が召された会員の所にもって行かれます。
祈りの献花が、慰めの献花に替えられます。

礼拝後には、お味噌汁、黒米ご飯のおにぎりを頂きました。

来週も礼拝は、10/12 10:45から行われます。
どなたでもどうぞご自由にお越しください。

本日の説教要旨です。新共同訳聖書の35頁からです。




説教要旨】 マタイによる福音書1821-35節 
聖書の内容は多岐に渡りますが、伝統的に大切にされてきた教えは「赦し」です。本来は「神さまからの赦し」なのですが、「私たちが誰かを赦す」という教えに替えられてしまっています。今日の聖書にはペトロが登場し、主に、赦しは7度までかと問います。完全に赦すべきかと問うのです。主は、7*70の赦し、つまり超完全に赦せと教えるのです。思わずうなります。

そもそも赦しの回数を数えている時点で赦したことにはならないでしょう。主はけれど、この後、不思議な例えを話します。王さまは家来の借金を、初めは全財産を充てて弁済するよう命じます。平身低頭の家来を王は赦します。その足で家来は仲間の借金を赦さず受牢させます。王はこの家来を二度目は赦さないのです。「○○の顔も三度」以下の、救いようのない話です。

ですから、主は前半では「細心の赦し」を語りますが、後半では「赦しの放棄」を語るのです。聖書の話としては救いようがないが、これがいわば現実でしょう。赦されたにも関わらず、誰かを赦せない者は、このような末路を遂げるという意味です。この家来の姿は、残念ながら私たちの姿でもありましょう。「救われる、赦される者は誰もいない」ということになります。

 自身をタナに上げて人を貶める姿の醜さを、私たちは真摯に反省したいのです。けれど聖書は、それだけを語りません。当初王は家来に、借金の代償として全財産の弁済を命じます。本来なら私たちの罪はそれに相当します。だが主は、本来の私たちの弁済を自らが代わりに為したのです。それが主の十字架です。私たちの代わりにご自身を代償となさり、更に復活されたのです。私が誰かを赦そうか、以上に、私たちがここまで赦されていることを想起しましょう。