2017年9月17日日曜日

9/17 台風前の海と礼拝献花

  本日、徳山礼拝で捧げられた献花です。
 礼拝堂の明かりを落として撮影したために、このようになっています。
 背景には、徳山の十字架があります。

9/16(土)小浜礼拝前の海です。近づく台風の影響で、海は大荒れでした。

昨日、本日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山で礼拝が行われました。

特に本日、台風の影響が危ぶまれましたが、大勢が集われました。

聖書の学びが再開しています。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
 行われます。

9/19 (火)15:00 徳山 聖書の学び

9/23 (土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

9/24(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書1613-20節】
 フィリポカイサリアとは、時の領主がローマ皇帝に献上した地域の一つでした。町に住まう住民の意思とは無関係に、地域全体がローマ風に替えられたのです。その地域に属するある町で、主がご自身の噂を求めます。町の人々は、ローマ支配下でも聖書の伝統に生きる人々でしたから、聖書の偉人(しかしごく地域的な預言者)を主に重ねます。しかしこれは、当たり障りのない答えと言えます。どこにローマの耳があるか分からない町ですから、主を、政治家でなく過去の宗教者と見做す回答を為します。余計な軋轢を防ぐ、人の姿ですね。

 そのような雰囲気ただよう中、ペトロが面目躍如します。主を「生ける神の子」と答えるのです。ローマ支配下の町で、他の弟子たちが過去の偉人の名前を持ち出してきたこの空気で、「神の子」と言う告白は素晴らしい。主もペトロの男気を「幸いである」と祝福します。

けれど主の心には彼への一抹の不安がありました。その不安を象徴するのが彼の名の呼称です。主は彼をまず「シモンバルヨナ」と本名で呼びます。今までペトロと呼んでいたのに、ここで本名を呼ぶ。素の彼に注目し、改めて「ペトロ」と呼びます。「大岩」の意味ですが、実は石全体を表す言葉です。意味には大岩も小石もあるのです。また彼の地は火山地帯で、軽石も転がっていた。つまり彼を「ペトロ」と呼んだ意図は、主にしか分からない。確かに彼は、やがて偉大な人物となりますが、果たして主はどのような意図で彼をペトロと呼ぶか?

 ここで面目躍如の答えを為したペトロは、直後に散々な叱られようを見せています(退け、サタン)。主の意図としては、ペトロを含む誰もが、小石、さざれ石のようなものだったのでしょう。けれども「さざれ石が巌となる」ペトロはやがて、自身の不甲斐なさをも全て知られている所に立って、教会を導く働きに身を投じて行くのです。巨岩となったのです。ペトロが主から頂いた「鍵」は私たちにも与えられています。何を開ける鍵でしょう。
 

2017年9月13日水曜日

9/10 礼拝とコンサート、そして海

  9/9の小浜礼拝前の海です。あまりにもきれいだったので。

 9/10 徳山C礼拝後のコンサート前です。
 
コンサート後の花束贈呈。
その2.

先週土曜日、日曜日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山では礼拝が行われました。


聖書の学びが再開しています。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
 行われます。

9/12 (火)15:00 徳山 聖書の学び

9/16 (土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

9/17(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書1521-28節】
 なぜ母は「私を憐れんでください」と主に言われたのでしょうか。「悪霊」に苦しめられているのは娘であって、母は少なくとも病の当事者ではありません。実際、17章では「息子を憐れんでください」と願う別の父が登場します。なぜこの母は「私を」と願ったのか。この母の思いは、古代的でなく現代的なものなのです。私たちも、立場や状況は違えど、必ず一度は抱いた思いなのです。それこそ、因果応報の考えによる自己否定です。

 母は娘の病を「悪霊の仕業」と考えています。まずこの病は、当地の風土病マラリアであったと察し得ます。高熱を発し、うなされ、うわ言を口にする。そういう症状から、聖書の時代はこの病が、悪霊の仕業と目されていたのです。そして、その病の原因は、本人や親の責任とされたのです。母にしてみれば、二重の苦しみです。娘の容態を見る苦しみ、そしてその責任を自分が担う苦しみ。自分のせいで、この娘が今かように苦しんでいる。だから「憐れんでください」と主に告げるのです。彼女の住むところは、異邦の地でした。

 一方、この時の主は恐らく、複雑なお気持ちの中にいました。「イスラエルの家の失われた羊の所に行きなさい(106)」主はかつてそのように弟子たちに告げ、ご自身もユダヤの人々を対象に活動していたのです。ところが主ご自身がその「イスラエルの家の失われた羊」たちに手を焼いていたのです。前の働きの地を出立され、今日の箇所で出会ったのが、異邦の女性でありながらも、因果応報の思想に苦しめられ、重荷を抱えつつすがる女性でした。

 言葉だけを見れば、主はこの女性を排除しているように聞こえます。実際、弟子たちは愚かしくもこの女性の排除を主に願っています。でも主の本心は、この女性の信仰を見た喜びに溢れていました。そして女性は、主の言葉を聞き、その恵みを知ったのです。主は、私たちにそれぞれのやり方でその姿を示されます。大切なことは、み言葉に聞くということに他なりません。主が言われた「信仰」とは、原語で「真心」という意味です。私たちは、自身の真心からの祈りと願いを主に捧げ、み言葉に聞く。そこに喜びがあります

2017年9月3日日曜日

 9/3 海と献花と礼拝

 空はすっかり秋の空。9/2の小浜礼拝前の海です。

花もすっかり秋の花。9/3の徳山礼拝後の献花です。

昨日、本日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山では礼拝が行われました。

益田小浜礼拝では、いつもの方が集われて短い礼拝を行っています。

益田元町礼拝では、六日市の方が礼拝に集われました。

六日市礼拝では、カナダから帰省された会員お姉さまが集われました。

徳山礼拝では、骨折療養中の兄弟が集い、その後に皆で会同清掃をしました。

聖書の学びが再会します。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
 行われます。

9/5 (火)15:00 徳山 聖書の学び

9/9 (土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

9/10(日)10:45 徳山 礼拝 

礼拝後、コンサート 入場無料

「バンドネオンとピアノのデュオコンサート」です。


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書1422-33節】
 弟子たちの心根は不思議の一言に尽きます。弟子たちは今日の聖書直前で、主の「五千人の給食」を目の当たりにしました。それから時が経っていないのに、主を「亡霊」と見做すのです。ですからここで弟子たちは、①主を既に亡き者としているその主が、この世に遺した自分たちに心残りなことを訴えに来ている、と考えていたのです。主の弟子たちは聖書で、不甲斐ない姿で描かれることが基本なのですが、ここでもそうなのです。

 それでも、「五千人の給食」を目の当たりにした直後の弟子たちは、いささか度を越していますね。このマタイ14章で、主は「神と人とのつながり」をテーマにしておられます。弟子たちは前段落では、主に大群衆の責任を押し付け、今日の聖書ではまず、その主を亡霊扱いします。「安心しなさい」という主の言葉を聞いていないのか、腑に落ちていないのか、「主よ、あなたでしたら」と、まだ亡霊扱いを止めません。そもそも主は弟子たちを「強いて船に乗せる」のですが、それは弟子たちの訓練という意味があったのでしょう。その主の真意を解さず、今なお弟子たちは自分たちという枠にこだわるのです。

 主は弟子たちに不信仰を告げます。この不信仰は、湖上の一連の出来事だけでなく、「給食」の出来事を見ても解さない弟子たちに向けられたものです。その不信仰の言葉は、弟子たちを代表してペトロに向けられます。けれども主は、不信仰を告げつつ、その弟子の船に共に乗るのです。これが福音なのです。何事にも動じない不動の信仰は素晴らしい、しかし、例え動じてしまっても、主は自らの身を弟子たちと共に居らせるのです。そのことのために、あえて主は弟子たちだけを「強いて」船に乗せ、自身は祈ったのです。

 弟子たちは主を「神の子」と告白しますが、その弟子たちはやがて離れて行きます。奇しくもこの言葉は、主の十字架の時に、異邦人である百人隊長の口から出ます。そういう弟子たちが、やがて教会の核となっていった、変えられていったことも大事です。主は、時に右往左往し、居場所や所在を無くすそのようなものを導いて下さるお方なのです。